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このページでは、カウンセリングについての私見を紹介します。 まあ、あくまで私見です。 一般論ではありません。ご注意を。
【一進一退】
その一…『一進一退…』
悩んでいる人は、何かにすがりたがる傾向があります。 それがカウンセリングである場合もあるし、宗教であったり、本であったりする場合もあるでしょう。
多くの人は、「一気に解決すること」を望みます。 まあ、それも当然でしょう。 それが人情だと思います。
しかし、世の中、そうそう、うまくいかないのも、また事実です。 こればっかりは、しょうがないですね。
カウンセリングに魔法の言葉を望む人もいます。 それを聞いたら、一気に快方に向かう、みたいな…。 まあ、それも当然といえば当然です。 それだけ苦しんでいるし、悩みもしているのです。 人生の答えを出してもらい、導いてほしいと思う人もいます。 それだって当然です。 それが人情であるように思います。
しかしながら、カウンセリングは、そういうものではないです。 悲しいかな、そうなんです。
カウンセリングは、何らかの問題と向かい合うという面があります。 その問題というのは、今見えている問題というよりは、今見逃している問題であったり、その奥にある問題だったりします。 当然、悩みは深まったりします。 悩みが一気に解消するというのとは、程遠いです。
カウンセラーは、安易に答えを出しません。 また、出せるとも思っていません。 何が善いことで、何が悪いことかも、よく分からんのが現実です。 そういうものを突き抜けたところに、答えがあったりします。
また、クライアントさんの人生を手前勝手に選択したり、決め付けたりもしません。 導くということも、悪くするとコントロールにつながる事を知っています。 カウンセラーが望むのは、クライアントさんが「自分で生きる」ことであって、「誰かに生かされる」ことでもないし、「誰かにコントロールされる」ことでもないです。 (因みに、「自分で生きる」とは、独りぼっちで生きるという意味ではないですよ)
カウンセラーがするのは、ともかく聞くこと。 クライアントさんと共に、クライアントさんが沈む時は、沈んでいくこと。
そういう中で、今まで見逃していたものを見つけること。 他の生き方、今までにない生き方――そういうものを見つけること。
といっても、それを成すのは、クライアントさん、本人です。 カウンセラーは、ある意味、そこに――あるいは傍に――いるだけです。 (根気よく待つのみです)
人生の仕事を、他の誰かがしてくれるわけではありません。 悲しいかな、そうです。
神様だって、カウンセラーだって、何かの本だって、 誰も人生を代わりに歩んでくれはしません。
神様や、カウンセラーや、何かの本が与えてくれるのは、 「きっかけ」であり、 「ものの見方」であり、 何かの「ヒント」です。
そして、それだって、見つけるのは本人です。 そこに意味があります。 本人が、自分で勝ち取るのです。 それでこその宝です。
苦労も多いですが、その分、価値があったりします。
そして大事なのは、それを踏まえ、本人がどうしたいのか? どうするのか?
ということです。
どう生きるのか?
ということです。
そうすれば、神様だって、カウンセラーだって、何かの本だって、 自分で決めた方向性に対し、きっと協力してくれます。 (あるいは、今までも協力してくれていたことに気づいたりします)
…そういう事です。
それでこそ、自分の人生を生きている、って気がするでしょう。 きっと。
カウンセリングを行なっていると、一進一退が続いたりします。 カウンセリングがうまく働き、人間というものが活性化すればするほど、 細部にわたり分離→統合のシステムが働き、 結果として、最後に、全体としての『統合』がなされます。
でも、その過程で、今まであやふやだった分離が明確化したり、 混沌のような状態になることだってあるでしょう。 でもそれも、「統合」に向かう、通過儀礼だったりします。
そんな時、本人にとっても、周囲にとっても、ある意味、「待つ」ことが強いられるでしょうか。 でも、それは終着点ではありません。 あくまで、過程であり、通過点です。
大事なのは、三歩進んで二歩下がる的に、 「3−2」=1歩、進んでいることです。
ある時は、進んでなくてもいいくらいです。 結果、(あとで見てみれば)進んでいればいいです。
その積み重ねで、進んでいきます。
ある時は、大きく進み、 ある時は、停滞します。
但し、結果として、しっかり進んでいるものです。
『価値ある仕事の方が、代償も大きい』 『辛い仕事の分だけ、得ることも多い』
一進一退、 そういう時でも、先には希望があるもんです。
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【アクティング・アウト】
その二…『アクティング・アウト』
「アクティング・アウト」とは「クライアントさんが自身の内面において遂行すべきことを、外的な行動として表現してしまうこと」です。 河合隼雄氏は、その著書「心理療法序説」の中で、以下のような心得を与えてくれています。
◆
・クライアントのアクティング・アウトを、治療者に対する何らかの「表現」としてみること、 ・治療者の共感力がもっと高かったら、そのようなアクティング・アウトは不要かもしれないこと、それを忘れてはならない。 ・クライアントは治療者に対してのみ表現しようとしているのではなく、「世界」に対してそれをしているのだが、 治療者はいうなれば「世界」の代表として、その表現を読みとかねばならないのである。
◆
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【人生の奥義】
その三…『人生の奥義』
人生の奥義―― こんな言い方をすると大層に聞こえるかもしれませんが、なんてことはない、 『良いことを良いと受け取り、悪いことを悪いと受け取る』 ただそれだけです。
(『良いことを良いと認識し、悪いことを悪いと認識する』と言ってもいいかもしれません)
ただ、こういう事は、なかなか難しいことでもあります。 いや、ホントに。
☆
例えば、親に虐待などを受け、傷つけられながら、それを自分のせいにして生きてきた人…
こういう場合、自分を傷つけた親が悪いと認識できていない事が多いです。 あるいは、自分が悪いと思っている事だってあるでしょう。 まあ、どうあれ、なかなか処理できるもんでもないです。 それで当然だと思います。 広い意味で、複雑ですよ。
もちろん、これをもって、親の全人格を否定しろというのではないです。 親子の絆や情だってあるし、育ててもらった恩だってあるでしょう。 楽しい想い出だってあるかもしれません。 言葉や文字を超越した情だってあるでしょう。 整理できなくって当たり前です。
ただ、自分を傷つけたということに対しては、非難してもいいはずです。 何も、自分ばかりを責めることはないです。
ヘンな言い方かもしれませんが、「それはそれ、これはこれ」。 楽しい思い出もあるかもしれない、 他人には推し量れない親子の情もあるかもしれない、 それを否定することもない、 でも、それはそれ、これはこれ、 怒りたいことには、怒ってもいいし、 非難したいことには、非難したっていいし、 泣きたいことには、泣いたっていいはずです。 誰が責められるもんでもありません。
そして、そういう対決をしていく過程で、自分を傷つけた親の気持ちも見えてくる部分があるかもしれません。 誰かが悪いということを突き抜けた、もっと別のものが見えてくるかもしれません。
大事なことは、『(親として)良い態度は良い、悪い態度は悪い、と認識すること』です。 感情を無理やり抑え込むこともないです。
もっとも、簡単に善悪の判断がつかないものの方が多いかもしれません。 でも、それだっていいです。 無理やり分けることもないです。
善いことは善い、悪いことは悪い、 ありがたいことはありがたい、 腹が立つことは腹が立つ、 憎いことは憎い、 分からないことは分からない、 何ともいえないことは何ともいえない、
ただ、それだけです。
相手の非を、自分の非として受け取る必要はないし、 無用な荷物を背負う必要もないです。
☆
こういうことは、いろんな関係にいえそうです。 恋愛関係、友人関係、先輩後輩の関係、上司と部下の関係、家族の中の関係…いろいろあるでしょう。
自分のした事にしても、『良いことは良い、悪いことは悪い』。 また、割り切れないことも多いでしょう。
そうすれば、自分のした良いことには自信が持て、自分を信頼する事ができるかもしれません。 (あるいは、不安を吹っ飛ばせるかもしれない)
逆に、自分のした悪いことを認識できれば、それを直すことも可能かもしれません。 今まで繰り返してきた失敗だって、失くせるかもしれません。
そして、良いところでも悪いところでもない部分を、無理やり分別することもなくなるでしょう。
善いことは善い、悪いことは悪い、分からないことは分からない、 嬉しいことは嬉しい、悲しいことは悲しい、 どっちでもないことはどっちでもない、どっちでもあることはどっちでもある、 ただ、それだけ。
相手に対しても、『良いことは良い、悪いことは悪い』。
相手の負債を自分が背負う必要はない。 自分の負債は背負うし、相手の負債は背負わないでいいのが基本です。 また、例外だってあるかもしれません。(まあ、余裕があるときは)
相手の負債を自分のせいにして悩むことはないです。 逆に、自分の負債は自分のものとして認識しないと修正できません。
自分に対しても、相手に対しても、『良いことは良い、悪いことは悪い』。
もちろん、それだけでは語れない部分は多いです。 でも、そうする中で、いちいち自分や相手を、良い悪いに無理やり分別することもなくなっていでしょう。
☆
『良いことは良い、悪いことは悪い』、この認識を困難にするのが、 「コンプレックス」や「偏見」です。
あるいは、「決め付け」や「思い込み」といってもいいでしょうか。
相手が悪いのに、これは自分のせいだ、自分のせいに決まっている …そう決め付け、思い込んでいるとうまくいかないかもしれません。
直すべきは相手の態度であって、自分の態度ではない時、 自分がいくら改めようとしても、なかなか直しようがないです。
一方、自分が悪いのに、これは相手のせいだ、相手が悪いに決まっている …そう決め付け、思い込もうとしてもうまくいかないでしょう。
直すべきは自分の態度であって、相手の態度ではない時、 いくら相手を非難しても、自分が態度を改めない限りうまくいかないようです。
「決め付け」や「思い込み」は目を曇らせます。 『良いことは良い、悪いことは悪い』という認識を妨害します。
☆
ある人は、自分が男性から傷つけられた経験から、すべての男性を非難しようとするかもしれません。 「しょせん男なんて…」と言っている内はまだいいですが、 すべての男性と接するのが苦痛であれば、やはり問題でしょうか。
中には、社会問題をすべて男のせいにする人もいます。 これがうまくいかないのは当たり前のことかもしれません。
男性の中には良い人間もいるし、悪い人間もいる。 それを混同してはうまくいかない。 実際問題、良い男性でも悪い男性でもない人の方が多いでしょう。 善悪で計れないのが、人間でもあります。
もっというと、同じ人間の中にも、良い行いもあるし、悪い行いもあります。 当たり前にあります。 一をもって十とはいえません。
大事なことは、『良いことは良い、悪いことは悪い』と認識すること。 男性の中にも、良い人間もいるし、悪い人間もいる。 同じ一人の男性でも、良いこともするし、悪いこともする。 その一つ一つで、『良いことは良い、悪いことは悪い』と認識するのが大事です。
また、どっちでもない事を、無理やり分けることもないです。
☆
ある人は、一人の女性から傷つけられた経験から、女性すべてを敬遠するかもしれません。 「しょせん女なんて…」と言っている内はまだいいですが、 すべての女性と接するのが苦痛であれば、やはり問題でしょうか。
中には、女性を不当に低く評価し、それで自己満足しようとする人もいます。 これがうまくいかないのは当たり前のことかもしれません。
世の中には、良い女性もいるし、悪い女性もいます。 それを混同してはうまくいかない。 実際問題、良い女性でも悪い女性でもない方が多いでしょう。 人間、善悪で分けられるものでもありません。
一人の女性にしたって、良いこともするし、悪いこともするでしょう。 当たり前に。 ひとつのことで、善だ悪だとはいえないです。 (まあ、どっちかの傾向が強い、ってことはあるかもしれません)
大事なことは、『良いことは良い、悪いことは悪い』と認識すること。 女性の中にも、良い人間もいるし、悪い人間もいる。 同じ一人の女性でも、良いこともするし、悪いこともする。 その一つ一つで、『良いことは良い、悪いことは悪い』と認識するのが大事です。
また、どっちでもない事を無理やり分けることもないです。
☆
とはいえ、そうそう簡単に割り切れないのも、人間の特徴です。 そんなこと出来れば苦労してない、って話もあります。
でも、まあ、こういう考え方もあるって事です。
そして、「善いことは善い、悪いことは悪い」――この至ってシンプルな思考ができずに、悩んでいる人も、また多いです。 また、それだけの理由があるもんです。
☆
こういう事は、他のケースでもいえるかもしれません。
年配の人が怖い(あるいは、嫌い)、 特定の年齢の人が怖い(嫌い)、 特定の状況が怖い(嫌い)、 特定の傾向を持つ人が怖い(嫌い)、
こういうことの根底には、「善いことは善い、悪いことは悪い」と言えない、そんな状況があるのかもしれません。 シンプルな思考を阻害する要因が、奥の方で眠っているのかもしれません。
☆
良かったことを良かったと思い、 辛かったことを辛かったと思い、
嬉しいことを喜び、 悲しいことを嘆き、
良い部分を知っていて、 悪い部分も知っていて、
事実を事実として受け取り、 推測を推測として扱い、 決めつけなどはせず、 間違った思い込みは捨て去り、
ひとつの嫌いなことで、すべてを嫌いにならず、 ひとつの好きなことで、すべてを赦すこともなく、
良いところも悪いところもある自分を知っており、 良いところも悪いところもある相手を知っていて、
自分の悪い部分は直し、 相手の悪いところには怒り、
また、自分の悪い部分を時に赦し、 相手の悪いところを時に赦し、
すべてを良し悪しで分別することもなく、 すべてを善悪で分別することもなく、
立ち向かうべき問題には立ち向かい、 どうでもいい問題はどうでもいいとし、
頑張れる時に頑張って、 頑張れない時は休んで、
時に進んで、 時に立ち止まり、
時に考え、 時には忘れて、
自分だけの基本姿勢を持った上で、 例外も愛し、
すべてのものが満ち溢れている世界を愛し、 そんな世界の上に立つ自分を愛し、
そんなすべてを受け入れた上で、 自分の人生を歩む、
これが人生の奥義です。
そして、そう思えることを阻害する要因があるなら、 そういうものと勝負することも、また必要かもしれません。
まあ、勝負できる時に、それだけのエネルギーが補充できた時に、 信頼できる人と共に、ですかね。
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【後悔】
その四…『後悔』
世の中には、いつも後悔して苦しんでいる人がいます。
人間なら誰だって後悔くらいするわけですが、いつ何時(なんどき)も後悔してしまったり、後悔する心から逃れられなかったり、いつも後悔で心が圧迫されて苦しんでしまう…そんな場合もあります。
後悔して、後悔して、後悔して…それはもう死にそうになっている人もいます。
☆
私はどちらかというと、後悔しない人より、後悔する人の方が好きです。 (あくまで私の趣味です)
後悔はあまりせず、さっぱりと元気よく生きておられる人もいますが、それよりは、後悔しながらも頑張って生きている人の方が、どちらかと言えば好きだったりします。 (もちろん、さっぱり元気よく生きている人も好きですが)
☆
少し大雑把(おおざっぱ)に言うと、 ・ちゃんと後悔しないと、過去の過ちを正せない部分があります。 ・ちゃんと反省しないと、また同じ失敗をしてしまうかもしれません。
でも、だからといって、後悔ばかりで苦しんで良いとも思いません。
☆
なぜ後悔ばかりで苦しいかというと(これまた大雑把な言い方になりますが)、 『後悔し過ぎるから』――そういう面もあるでしょうか。
必要以上に後悔する必要はないです。 後悔すべきことにだけ、後悔すればいいです。 背負える分だけ、背負えばいいです。 また、後悔する余裕のある時に、後悔すればいいです。 (その方が効果的です)
☆
もうひとつの見方があります。 後悔しているようで、実は後悔していない場合があります。
反省しているようで、嘆いているだけだったり、 本来後悔すべきものから逃げ、別のもので代用し、後悔している場合もあります。
こういう場合は、『後悔の仕方や、後悔する方法が間違っている』といえるでしょうか。
(とはいえ、こういう事にも已むに已まれぬ事情があるもので、とても責められるもんではありません) (ただ、大事なことは、それを本人が悟った時、どうするか?
――そういう事でしょうか)
☆
・悩んでいると言いながら、しっかり悩んでいない事が問題な場合もあります。 ・後悔していると言いながら、しっかり後悔していない事が問題な場合もあります。
(別に責めているのではありません。それにも理由があるのです。とても責められません)
・しっかり悩んで悩みきると、すっきりする部分があるかもしれません。 ・しっかり後悔すると、すっきりする部分があるかもしれません。
☆
『言うは易いが、行なうは困難』 まったく、その通りです。
でも、最近の問題、社会的なものから個人的なことまで、 悩むべき問題で悩まないから、悩みきらないから、 後悔すべき事を、しっかり後悔しないから、 問題が大きくなっているように思います。
悩むことはしんどいし、後悔することもしんどいです。 でも、悩まないこと、後悔しないことで、もっとしんどい事がやって来るのも、また事実です。
今の時代、 しっかり悩むこと、しっかり後悔すること、 そのような事が望まれているのかもしれません。 (まあ、ひとつの側面として、ですが)
そして、カウンセラーの仕事のひとつは、 悩みやすくすること、後悔しやすくすること、 (といっても、そういう風にコントロールすることではないです)
そして、そういう仕事にしっかり付き合うこと、でしょうか。
☆
そして、本当の「後悔」には、その先がありそうです。
これからは〜しよう、とか、ですね。
それがないと、ちょっと困ります。 それがないと、変わらないかもしれません。
未来へのアプローチ、 本当の後悔には、それが必要かもしれません。
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【弱い私、足りない私】
その五…『弱い私、足りない私』
このサイトなどで、いろいろ偉そうなことを書いている私ですが、弱い部分もありますし、足りない部分も多いです。 (当たり前に、そうです)
☆
どれくらい弱いかというと、不安な夢を見ただけで挫け(くじけ)そうになるくらい弱いです。 (別に、弱い自慢をしているわけではありません。事実として、そうなだけです)
でもまったく挫ける(くじける)かというと、実はそうでもありません。
「ああ、私は本当に弱いな」、「嫌になるくらい弱い」…でも、それでも頑張ろうとしている、こうして自分の人生を歩いている、弱いながらも頑張って、自分の脚で立とうとしている…ああ、私は弱いけど、頑張ってるな…そう思えます。
弱い自分を知って、にやけることもあります。 (人前でにやけると格好悪いので、下唇を噛んで我慢することもあります)
(繰り返しますが、弱いことを自慢しているわけではありません。自分が弱いことを知っていて、弱いけど頑張る自分を評価しているのです。弱さから逃げることなく、そんな自分を受け入れる自分を、ある程度、評価しているのです)
だから、私は、弱いながらも自分の脚で立とうとしている人の姿を見ると、「ああ、美しい」と心から思います。
☆
私はいろいろと足りない人間です。 どれくらい足りないかというと、以前の人とのやり取りを振り返って、顔から火が出るほど恥ずかしかったり、馬鹿なことを言ってしまった、乱暴なことを言ってしまった、考えが足りなかった…そう思うほど、足りない人間です。 時々は、嫌にだってなります。
でも、そこに留まる人間でもありません。
・「ああ、ともかく、自分は足りない人間だな〜」と受け止め、 ・「必要な部分は、ちゃんと補おう、頑張ってでも補おう」と思い、また実践しようと思います。
すぐに補えるわけではないし、自分の足りないところを認識するのは、やっぱり辛いです。 些細なことで寝込みそうになる事だってあります。 でも、先に進もうと思い、出来る時に、出来る分だけ進もうとも思っています。 そして、少しずつですが実践しているつもりです。
そうしている過程で、少しずつ自信がついてきたように思います。 まだまだ足りませんが…。
☆
私は弱い人間だし、足りない部分を持った人間です。 事実としてそうです。 でも、それだけの人間でもありません。
『良い部分も悪い部分も持っていいて、それを知っていて、そういう自分が好きな人間です』
まだまだ嫌な部分もあるし、課題は多いですが、 そんな過程にいる自分も好きです。 全部認めているわけではないですけど、認めていない部分も含めて、好きだったりします。
すぐにこう思えたわけではありません。長い時間をかけて、こうなりました。
☆
この間、「劣等感コンプレックス」の記事を書きましたが、私も劣等感コンプレックスを当たり前に持っています。隠したい過去もあります。秘密だってあります。「影」もあれば、失敗も数多くあります。(当たり前です)
そういう事と向き合うのは、正直しんどいです。時には、放り出したこともありました。 今でも、見たくない部分もあるし、嫌いな部分もあるし、逃げ出したいことだってあります。
でも、そういう部分も含めて、自分が好きだったりします。
私は少しずつ、少しずつですが、自分と向き合いました。 自分の嫌いな部分や見たくない部分と対決しました。 そうすると、いろいろと見えてくるものがありました。何が見えてきたかというと、それはこのサイトや日記に書いてあったりします(まあ、あくまで一部ですが)。
まあ、すべてが分かったわけでもないし、まだまだ足りないわけですが、 それでも分かったこともまた、多いと思います――それなりに、ですね。
そして、こんな弱い私も、いろんな対決を通して、ある程度強くなったつもりです。 もちろん、今でも弱いんですが、以前よりは強くなっているし、そんなこんな全部含めて、自分を好きになりました。
だから、弱くても、足りなくても、「そんな自分が好きだ」と声を大にして言えます。 (少なくとも、自分に対しては、言えます)
だからといって、世の中みんなも好きになれ、なんて事は言いません。 みんなも評価しろ、なんて事も思いません。 ただ、私が、私を好きなだけです。 私が私をある程度評価している――ただ、それだけです。
☆
私は、自分の良いところも悪いところも、弱いところも、足りないところも、それでいて頑張るところも、時々はずるく生きるところも、格好悪いところも、理想を目指してそれを実現しようとしているところも、時々は逃げ出したくなるところも、またそれを知っていて踏ん張るところも、全部、全部含めて、好きです。 (そして、そんな中で、好きでないところを持っていることも知っています)
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