【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



城太郎日記へようこそ♪
このページでは、「ユング心理学の用語」についての紹介をしています。

ユング心理学入門
河合隼雄さん、最初の著作。
タイプ、コンプレックス、夢分析、アニマ・アニムスなど。
影の現象学
我々に常に付いて回る問題、影とは。
もう1人の私、私の外郭。自由にならない分身と出会うことで、何が生じるか。

【目次】


ご注意)
この辞典は管理人の私見に彩られたものです。
したがって、これがユング心理学においての通説というものではありません。
有識者の前で自慢げにこの辞典に書かれたような解説を話したなら、大いに笑われたり、冷ややかな視線を送られることが予想されるので、ご注意下さい。
(因みに、当HP内の他のコンテンツも同じです)



「元型」
「自我」
「ペルソナ」

「影」
  @「影」
  A「影」と「ペルソナ」
  B「投影」
  C「もう一つの影」

「コンプレックス」
「劣等感コンプレックス」

「アニマ・アニムス」
「トリックスター」

「個性化/個性化の過程」
「共時性」

無意識 
(2008年02月27日追加)
  個人的無意識
  普遍的無意識

【その他、療法など】
「ゲシュタルト療法」






【元型】



「元型」(Archetype、Archetypus)


「元型」とは、人類が共通して持つ、普遍的な「型」のことです。
我々は無意識の深い領域の中に、この共通の「型」を持っていると仮定されます。

例えば、「母親」を認識する時、我々は実際に知っている母親を認識すると共に、無意識ながら、心の奥の方にある「母なるもの」の元型イメージに触れています。
我々ひとり一人の中に――そのずっと奥のほうに――「母なるもの」の元型があって、それを目の前にいる「母親」(あるいは、それに近しい人)に投影して見ていると共に、その「母親」の中にも、「母なるもの」の元型があって、そういう意味で、我々は二重に、「母なるもの」の元型イメージに触れているわけです。
我々は自身の中にある元型を誰かに投影するし、その誰かは、自身の中の元型を――元型のある部分を――生きていたりするんですね。
また、その逆も然りです。

この「母なるもの」は、人類が共通して持つイメージであって、これに実際の経験(自身の母親と接した経験、近くにいる他の母親と接したり眺めた経験、その社会・文化における母親象など)が加えられ、自我は「母親」というものを総合的に認識します。
つまり、どちらにも左右されるわけです。ある人は実際に経験した母親のイメージに強く影響されるかもしれないし、ある人は潜在的な(元型的な)母親のイメージを強く受け取るかもしれません。また、その両方が重なり合って、混乱したりもするんでしょう。

元型は「普遍的」(=すべてのものに共通)であるものの、自我が認識する際に「個人的無意識」というフィルターを通すため、「普遍的」意味合いを持つと同時に、「個人的」意味合いも持つことになります。
言葉をかえると、無意識の底にある「普遍的なもの」が、現実世界にある「個人的なもの」(個人が見ているもの)を通して現れるので、両方の影響を受けるんですね。
平たく言うと、「すべてのものに共通する」といったものはあまりに広すぎて把握できないので、「経験的に知っている何ものか」というカタチで、自我は把握するわけです。
あるいは、我々の前の「A」は、その奥に、「元型」を持っているのですが、そのあまりにも多様で広大、それでいてある種の傾向を持つ、無意識内の可能性が、この世という我々の現実世界に、顕現可能なカタチをもって、現れてくるわけです。
で、我々は、人間の行動なり態度なりを観察した場合、その奥に、元型という共通の型を見出すわけですね。
あるいは、元型のほうから見た場合、我々の奥の方に眠っている共通の型が――そのままだとあまりにも広大すぎて意識では捉えられないのだけども――目の前にある(その型と共通のエッセンスを持つ)何かを通して、現れたり、つながったりしてくるわけです。
そういうものを、我々はずっと奥のほうに持っているわけです。
(あるいは、無意識の深遠にある元型が、何ものかの姿を取って、意識の世界に現れてくるとも受け取れます)

したがって、元型自体は普遍的・不変的でありながら、自我が認識するイメージは多分に個人的な色彩に彩られます。(あるいは、その個人が所属する集団や文化の色、時代背景などに彩られます)
例えば、なんだかよく分からない「X」があったとして、今の時代に生きる我々は、それを「A」という風に把握したり、非常に「A」によく似たものと認識するかもしれませんが、他の時代の他の地域に生きている人は、それを別の「B」や「B」によく似たもの、と認識するかもしれないわけです。
同じ傾向を持って、それそのものは普遍・不変なものであっても、それに触れた人の認識は、それぞれで変わってくるわけですね。

で、その本来多面的な元型ですが、その内のある面が強く現れるケースもあって、例えば、「母なるもの」の元型の場合、それが「育てる」とか「抱きしめる」といった肯定的な面として現れる場合もあるし、「呑み込む」とか「抱え込む」といった否定的な面として現れる場合もあります。実際、元型はその両方を包含しているんですね。
まあ、ある種の物体が、見る方向によって姿や印象が変わるのと同じで、元型イメージもまた、見方によって、受け取るイメージは異なってくるわけです。
ある方向から見ると、聖母マリア様のようであり、別の方向から見ると、山姥や魔女みたいだったりするんですね。そういうものを全部ひっくるめての、「母なるもの」なんです。
存在そのものは同じで、不変でも、多面性を持つ以上、見る方向や受け取り方で、その印象は、当然違ってくるわけです。また、そのそれぞれの要素や特徴の内の一方(=肯定的な面だったり、否定的な面だったり)が強く発現する、そういう布置もあるんでしょう。

我々は「元型そのもの」を認識することはできません。
元型とは、それくらい深い(無意識の)領域にあり、また、意識ではそのすべてを把握できないほど、多様で広大なものです。
但し、その、未知の「それ」は傾向と要素を持っており、我々はその「それ」と奥でつながり、また同じ傾向と要素を持つ既知の「何か」を通して、「それ」を感じたり、そのイメージを受け取ったりするんですね。
「母なるもの」でいえば、その元型を我々ひとり一人も心の奥に持ち、また、目の前の「母なるもの」の中にも、そのイメージを見出すのです。


というわけで、元型は普遍的な意味を持ち、同時に個人的な意味も持つことになります。
そして、その傾向なり要素は、肯定的な意味も持つし、同時に、否定的な意味も持ったりします。
その「どちらか」ではなくて、その「どちらも」持ち、またその時々で、「どちらか」の要素が強く発現したりもするわけですね。
そういった注意が、元型を扱う場合には必要なわけです。
そして、もうひとつ大事なことは、元型というのは己の中にもある、それを忘れてはいけないのだと思います。

「元型」は無意識の――しかもかなり深い――領域のものです。したがって、自我は、「元型そのもの」を認識することはできません。そもそも次元が違うというかなんというか、その世界の成り立つ構造自体が違うので、こちらのシステムでは、あちらのものを捉えることはできないのでしょう。
自我が捉えるのは、その元型とつながるイメージであって、そのイメージに触れることで、我々は無意識の深い領域にある共通の型を、見出してゆくのです。


ユングは以下のように語っています…
――元型は「遺伝的に継承された観念」ではなく、「継承された機能様式」であって、それはちょうどヒナが卵からかえるような、鳥が巣を作るような、ある種のスズメバチが毛虫の運動神経節を刺すような、あるいはウナギがバミューダ諸島への行き方を見出すような、生得的なやり方に相当する。言い換えれば『行動パターン』である。元型のこの側面、すなわち純粋に生物学的な側面こそが、科学的心理学の本来の課題である――
(ユングが言いたいのは、おそらく、それが共通の「型」であること。つまり、生物学の分類と同じく、経験的に観測できる事実であること、なんでしょう。元型というものは、人間及び人間の内面を、深く、そして正直に、観測した時に確認できる、共通の型だと、言いたいのだと思います。それは各種の欲や本能と同じく、人間に備わっている機能様式なんですね。人間の奥の方にありながら、態度や行動として目に見えるカタチで現れる、そんな様式です)


ユングは、人間が心理的発達、社会的適応していく過程で、それぞれ特別な役割を担う「元型」を仮定しました。
それが、「影」「アニマ」「アニムス」「老賢者」などです。
人間は、その時々の段階で、それらと対決したり、触れ合ったりしながら、成長していくんですね。


関連記事:「やさしいユング心理学 第四章 元型」



参照【三省堂「大辞林 第二版」より】
goo 辞書:「元型」
>ユングの用語。
>本能とともに遺伝的に備わり、集合的無意識を構成する心像の型。
>民族や文化を超えて物語・神話・文芸・儀礼などの主題・モチーフの中に
>繰り返し現れる。太古型。祖型。






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【自我】 



「自我」(ego)


「自我」は幼児の成長過程の初期の段階で、「自己」から分離して生まれるといわれています。はじめ、あやふやだった意識が、やがて、「私」といえるものになっていくんですね。
はじめ、お母さんのお腹の中で純粋な「1」であった存在が(一体化していた存在が)、この世に生まれ出て、いろんな相対する「1」と出会うことで、私自身という「1」を意識していきます。
しかし、「自我」と「自己」は完全に分離するわけではなくて、密接につながっています。
ある見方では、自己は自我を包含しているし、大きな自己の上に自我が(乗っかるカタチで)存在していたりもします。
もう少し、身体のほうのことも考えると、人間の活動を維持する無意識的なたくさんのものの上に、意識(自我)というものがあるわけです。
我々はこのページを読んだり、マウスをクリックしたり、そうした意識的な活動もしますが、意識していないところで、心臓が動いていたり、細胞が死と再生を繰り返していたり、そういう無意識的な活動に支えられていたりします。

自我は、我々が生きていく上においての意識の中心であり、自我があるから、我々は「私」や「自分」というものを認識できます。私や自分というものを、しっかり認識するのが、「自我」です。
また、時間を超越して、過去の自分と今の自分を結びつけるのも、「自我」です。
どこにあっても、「私」といえる、「私」を感じられる、それが自我なんですね。

したがって、自我が弱いと逆に、過去の自分と現在の自分を結びつけることができず、「自我拡散」や「自我分離」してしまうかもしれません。
あるいは、ショッキングな経験により、過去の自分と今の自分を切り離した結果、このような事態が起こる可能性もあるでしょう。
日々暮らしながら、「私」というものがあまり感じられなかったりするかもしれません。
しかしまあ、自我というのは育てたり、育ったりするものなので、人生のある期間で、その仕事を優先するのも、ありかもしれません。我々はいろんな仕事に追われますが、自我を育てるのだって、人間にとって大切な仕事です。(というか、疎かにすると、けっこうたいへんだったりします)

人間の成長段階の、前半での大きな仕事の一つは、「自我を鍛えること」「自我を確立すること」であるといわれます。
しかし、西洋に比べて、日本人は自我を鍛えるのが下手かもしれませんね。(下手というより、慣れてない?)
あるいは、日本という場や空気の中では、自我を鍛える必要は、西洋ほどなかったのかもしれません。逆に、それが邪魔になったケースもないとはいえませんね。(自分を殺してでも、周囲との調和をはかるとか…)
こういう状況では、自我が育ち難かったり、確立し難かったりするのかもしれません。(そういう意味で、誰も悪くないですね)
また、元来、日本人は、意識的要素よりも無意識的要素を大事にしてきた面もありますから、この辺も影響しているかもしれません。(また、それが悪いとも言えないわけだし…)
ただ、これだけ西洋文化や西洋的な生き方が入ってくると、そうもいっておれなくて、そのモデルに従うんではないんだけれども、今ある状況の中で、日本人なりの自我を育てることは、必要かもしれません。
表層的なものがたくさん入ってくる中で、内面的な生き方にも影響がでてくるだろうし、「日本の外」というものにも付き合っていかなければならないのだから、日本人らしい自我の確立というのは、急務かもしれませんね。
(それをやるのは、いわば第一期生になるのだから、こりゃ、しんどいですな)
(まあ、数々の個人という先輩はいるものの…)
(↑社会としてそれはやれてないが、個人としてやった、先輩方はいる)

そういう意味で、それぞれの人生の中で「アイデンティティの確立」というのは、今まで以上に大きなウェイトを占めてくるのかもしれません。
(それを人生の中期や後半でやる場合も、多くなるかもしれませんね)
(こりゃ、たいへんだ)

関連記事:「エリクソンの成長の8段階――思春期・青年期」


前述しましたが、「自我」や「意識」は単体で存在しているのではなく、「自己」や「無意識」という母体を持ちます。
人は生まれ成長する過程で、自我を確立し、やがて自己に還るのです。

ユングはこう言います、
――自我と自己の関係は、動かされるものと動くものとの関係、あるいは対象と主体の関係である。なぜなら、自己から放射された決定要因が自我をあらゆる方向から取り囲む。したがって、自己は自我よりも座標軸の上方にあるのだ。
無意識と同じく、自己は先天的な存在であり、自我はそこから生まれて進化するものである――


(自己から生まれ、自己の中心に内在する成長願望、理想像への渇望、そのようなものに突き動かされ、成長・進化していくものが「自我」であるのかもしれません)
(分かりやすいところでは、本能とか欲望にも、我々は動かされるし、それによって生命が維持されている面もありますからね)







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【ペルソナ】 



「ペルソナ」(persona)


ペルソナの語源は、古代ギリシャで役者がかぶった「仮面」のことだとされています。(あるいは、「役柄」)
ユング心理学では、「社会的元型」とか「順応元型」とも言われ、「社会に適応した態度」とも言われます。

我々が社会で生きようとすると、ある程度、望まれた「態度」や「役割」を要求されます。その場その場で、相応しい態度をとらねばならなかったり、役割を果たさねばならなかったりするでしょう。言いかえると、そういう仮面を被らねばならないんですね。そういう役柄を与えられるわけです。
仮面と言ってしまうと、その中身を隠すみたいで印象が悪いかもしれませんが、その場その場で、相応しい服装に着替えるように、態度なり行動なりを、それなりにコントロールしなければならないということです。
そうしないと社会は回らないわけだし、だいたいみんな、知らず知らずのうちに、そうしているはずです。(家ではああして、学校ではこうして、あるいは、仲間内ではこうで、会社ではああで――そういうのが、ある程度あるはずです。また、ないと困ります)

大雑把に言えば、このように、社会や場が要求する(適切な)態度や役割、あるいは、自分が適応しようと思う態度や役割、それが「ペルソナ」です。
我々はそういうものを身につけているわけです。(その程度はあるものの…)

人間成長の初期においては、親や近親者、先生などの期待に応えようとして、「ペルソナ」が形成されます。
ある時は、その態度や行動は、大いに受け入れられ、褒められます。またある時は、それは受け入れられず、時に罰せられたり、非難されます。時には愛され、時には叱られます。そういうことを通して、ペルソナが形成されていくんですね。
知らず知らずのうちに、適切と思われる態度は残され、適切でないと思われる態度は排除されていきます。(ああ、ここではこうした方がいいのか、ここではこうしない方がいいのか、そういうことが無意識的にも行なわれ、身についていくのです)
こうして適切な態度が形成され、周囲との調和が育てられていきます。
例えるなら、その場に相応しい洋服を着るように、その場に相応しい表情をするように、そういった適切な態度(=ペルソナ)が、段々と形成されていくんですね。

ただ、ここで親や先生など、身近な大人の態度に一貫性がないと、ペルソナの形成に支障が出るかもしれません。親や先生の都合や気分次第で、子供に何の問題もないのに怒ったり、突き放したりすれば、子供はどのような態度が適切で、どのような態度が適切でないのか、分からなくなってしまいます。学べません。そして、いちいち大人の顔色を伺わなくてはならなくなってしまうかもしれません。
あるいは逆に、何でも褒められたなら、何が悪いのか学べませんから、適切な態度というのは学べないことになります。ありのままというのは、ある面では素晴らしいのですが、ある面では、場にそぐわないということでもあります。
もっと怖いのは、身近な大人があまりにも無関心なら、学ぶ機会自体が奪われてしまうかもしれません。そうなると、適切な仮面は形成されないわけですから、どこでも裸でいるような、そんなことにもなりかねません。
(但し、生まれつきこういうことが――苦手を越えて――出来ない場合もあるので、その時は、発達心理学等の専門家に相談するべきかもしれません)

このような経験を通して、受け入れられやすい「ペルソナ」が残され、人間の成長とともに洗練されていくことになります。
また、受け入れられない「ペルソナ」は無意識(個人的無意識)の中に追いやられ、抑圧されていきます。
そして、後者はやがて「影」を形成する一因となります。

このように、ペルソナは人間が社会で生きていく上で必要なものなのですが、ペルソナだけに頼っていても、人生のどこかで壁にぶつかるかもしれません。
周囲に適応しよう、社会に適応しようとしすぎても、仮面(ペルソナ)の中の人間の部分が死んでしまいます。そして、今度はその中身が存在を主張し始めるかもしれません。
(「アンタは世間体や社会性を大事にするけど、私というものを一向に大事にせんのやな」みたいな…)
社会で暮らしていくには、裸で歩き回るわけにもいかないので、それに相応しい服を着たり、それに相応しい仮面を身につけなければならなかったりするのですが、そればかりだと、中の人間の部分が、不平不満をぶち上げてくるんですね。
「窒息死しそうですよ」「不自然ですよ」――そういうことを、症状を通したりして、訴えかけてくるのです。
「バランスが悪いよ」と。

あるいは逆に、自分の中身を大事にしすぎて、ペルソナの形成を疎かにしてたりすると、人ごみの中で裸でいる夢を見て、バツの悪い思いをしたり、そもそも、周囲と調和してないので息苦しくなってきたり、そういうこともあります。
(重すぎるペルソナが鎧として、場違いなペルソナがその場にそぐわない制服として――そういう風に夢に現れる場合もあるでしょうか)

こういう両方を、現実問題として突きつけられたり、夢というカタチで訴えかけられたり、あるいは、何らかの症状として、(内面から)ふっかけられたりもするんですね。

まあ、どちらを大事にするかは、その人のタイプにもよるんですが、人生のどこかで、ある部分を育てなければならないだろうし、また別の時期には、今まで疎かにしていたほうを、育てなければならなくなったりもするでしょう。
そうやって、人間というのは、外にも内にも、適応していくんですね。

自分というものを大事にする人は、まず自分というものを育て確立してから、周囲に対する適応というものを育てるだろうし(そうせざるを得ない状況に追い込まれたりもするだろうし)、周囲との調和を大事にする人は、まず調和を身につけてから、自分というものを確立することになるでしょう(そうせざるを得ない状況に、追い込まれたりもするでしょう)。

ただ一般的なことをいうと、最初にペルソナに取り組むだろうし、その後に、アニマ・アニムス、自己など、内的に深い部分と向かい合うことになるんでしょうね。
そして、その過程で、自らの影との問題にぶつかったりもするでしょう。



【追記】

そうすると、ある「場」で形成されたペルソナが、また「別の場」に身を置くことで、通用しなくなることもあるので、環境の変化によって、「ペルソナの作り変え」みたいな仕事を、要請される場合もあるかもしれませんね。

環境の変化というのは、いろいろとしんどい仕事を運んできたりしますが、ペルソナという意味でも、なかなかしんどい仕事を、要請してくるのかもしれません。



日記内の関係記事:
『人の目』
『ペルソナ』
『ペルソナと期待』


「やさしいユング心理学 第七章 ペルソナ」







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【影】 



@「影」(shadow)


「影」は文字通り、我々に常に付いて回る問題です。
それは自分自身を映し出した姿であり、それを生んだのは自分自身です。(他人のものではありません)
振り返れば姿は見えますが、逆に、振り返らなければ姿は見えません。(ちらちら見えることはあります)
故に、自分自身より周囲の方が、影のことをよく認識している場合も多々あります。
更に、自分を映し出したものでありながら、鏡に映った姿と違って、中身は黒く、長くなったり短くなったり、大きな影の中では姿を消したり、そんなよく分からないものでもあります。

「影」は自我にとっては、不愉快な存在です。
『自分が認めたくない自身の側面』、『否定してきたもの』、『受け入れられない現実や価値観』、『社会的秩序や規範に反するもの』、『生きられなかった反面・半面』
――それらが「影」を形成します。
そんな、普段意識的には見えないようなものが、自分の比較的近いところで、存在してたりするんですね。(←ね、影みたいでしょ)

しかしながら、この自我にとって不愉快な存在を無視できるかというと、それは無理なようです。
影はいつも、自身の傍にいて、ついて離れないし、それから逃げることはかないません。見ないでおこうと思えば見ないでおけますが、存在自体が無いものになるわけではありません。自身が存在する限り、影も存在するのです。
そして、影を否定することは、余計に影に活力を与えることになるようです。

「影」のエネルギー源は、『抑圧』、『逃避』、『恐怖』などです。
それによって、比較的近い見えない領域に、いろんなものが放り込まれるわけですから、影は大きくなるばかりです。

例えば、社会の規範、倫理に外れるような(ある意味、本能的な)情動は、自我によって無意識下に追いやられ、「影」となります。そういうことはしてはいけないし、ある意味、思ってもならないことなので、無意識の方に、追いやられるんですね。
欲などの情動、衝動は、それ自体は生命維持に必要なものなのですが、社会規範などによって、無意識下に抑圧されやすいようです。
で、そういうものが、影を形成してゆくのです。

影は自我に囁き(ささやき)ます、「このままでいいのか?」「これがお前の本心か?」「お前には、こんな面もあるんじゃないのか?」「そもそも、それをするのは悪いことなのか?」と、影に人格を与えると、ヘンテコに思うかもしれませんが、例えば、性欲みたいなものは自我によって否定されたりしますが、性欲自体はコントロールできないものとして、内側からむくむくと自我に迫ってきたりするのです。(何だか知らないモヤモヤしたものが、意識に影響を与えたいもするでしょ)
そんな囁きを無視すること、抑圧することは、「影」に更なる活力を与えることにつながります。狭い押入れに、更に何かを詰め込むようなもので、当たり前に反作用が出てきます。
そして、命を吹き込まれた「影」は積極的に活動し、自我にまで影響を与えてくるかもしれません。
そうしてまで、影の役割を果たそうとするんですね。そして、これがあまりに強い時には、人格を奪うことさえあるようです。

で、影の役割とは何かというと、「生きていない反面を生きさせる」ことです。
今まで抑圧されたり否定されてきたことを、生き方の中に、取り込ませることです。
例えば、性欲であるならば、「お前(自我)は性欲を否定するけれど、人間にはもともとそういうものが備わっているし、それによって子孫が生まれ、社会が続いていくんじゃないか」と、饒舌にはしゃべりませんけども、そういうことを何らかの手段で、伝えようとするんですね。それは時に夢だったり、抑えきれない情動や衝動だったり、そういったもので、やらせよう、伝えようとしてくるわけです。
ただ、自我はそういうことを無視しようとしたり、抑えつけようとしたりしますから、そこに葛藤のようなものが起こって、しんどくなったり、退行したり、病気にもなるわけです。

こういうことがあるから、「影と対決しなければならない」とか、「影と対話しなければならない」なんて言われるわけですね。
ただ、影のようなものは、自我が否定するだけあって、否定するだけの何か(根拠)を持っているので、安易に肯定するわけにも、隷属するわけにもいきません。
例えば、性欲なら、それに溺れてしまうと、とんでもないことになったり、時に犯罪になったりもするわけで、やはり、対決のようなものは必要なわけです。
ここはあかん、でも、それだけじゃない――そういった葛藤の中で、意外といい面を見出したりして、そうやって、内に取り込んだりするんですね。
それが統合です。
善悪を含めて、それを認めてゆくのです。

こういうことを、今まで選んできた生き方と、それだけではない人間の部分、その両方の対決を通じて、自分の中に組み込んでいくのです。


最後に、影の特徴をまとめますと、

1)「影」は、『自分が認めたくない自身の側面』、『否定してきたもの』、『受け容れられない現実や価値観』、『社会的秩序や規範から反するもの』、『生きられなかった反面・半面』などからなる。

2)それらを抑圧することは、「影」に活力を与えることになる。

3)「影」が全く悪いものであるかというと、そうでもなくて、多少あるほうが人間的だったりする。

4)「影」には『克服すべき課題』と『受け入れるべき生き方や価値観』という二面性がある。

5)自身の「影」からは逃げ切れない。(なぜなら、それは自分を映し出した「影」だから)

6)「影」とすべきは『対話』や『対決』であって、『言いなりになること』ではない。

7)「影」と対話するには、「自我」の関与と、自我のそれなりの強さが要求される。

となるでしょうか。



関連記事:「やさしいユング心理学 第四章 影との戦い」

日記内の関連記事:
「影/心の地図」
「夢と影」
「ゲド戦記 影との戦い」目次(前編)
「ゲド戦記 影との戦い」目次(後編)




参照【三省堂「大辞林 第二版」より】
goo 辞書:「影」
>ユング心理学で、人格の影の面を指す元型の一つ。
>自分が生きられなかった半面が無意識の中に残されて作られるイメージ。







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【影とペルソナ】 



A「影」と「ペルソナ」


「ペルソナ」が「社会に対して適切な態度」であるのに対し、「影」は「社会や周囲に受け入れられなかった態度や価値観」という側面を持ちます。

周囲や社会と調和するためには、当然、してはならないことがあって、そういうものは無意識下に抑圧され、「影」になります。
しかし、「影」が本質的に不要かというと、もちろんそうではなくて、社会規範やマナーには反するものの、人間の維持活動や人間らしさとして、むしろ必要だったりもします。

例えば、本能的要素の多くは社会規範から外れたりしますから、抑圧されて「影」になる傾向があります。
本能に従い行動することは、社会や周囲にとっては迷惑になることが多いからです。
社会で暮らそうと思えば、食欲や性欲をある程度制御することが要求されますし、それは当たり前のことだったりします。人間は獣のように、振舞うことはできません。目の前のものに、欲望のままかぶりつくと、えらいことになります。

が、しかし、食欲や性欲そのものが「悪」であり、「不必要」かというと、決してそうではありません。
生命を維持しようと思えば食欲は必要であるし、子孫を生み出すには性欲は必要です。
また、ある程度、食欲や性欲がある方が人間的だし、それがうまく働くと、魅力的にさえなります。

ここで二つの事が要求されます。
1)本能や欲といった「影」の要素に支配されてはならない。(それは「罪」や「周囲との不調和」を生みます)
2)しかし、それは人間にとって必要なものであり、全く無視することはできない。

上記の、1)は「影を克服すること」を要求し、2)は「影を受け容れること」を要求します。

こういう葛藤の中で、人は悩んだり苦しんだりもするんですね。

で、本来克服すべき部分に容易に従うと、怖ろしいことになるかもしれないし、受け容れるべきものを拒否し続けると、それはそれで困ったことになりそうです。
また、こういうことは傍から見ていると分かりやすかったりしますが、当事者となるとなかなか難しい部分があるので、安易に解決できるものでもなさそうです。
人には、今までそうしてきた生き方や信条があるので、それを壊すのは、なかなかたいへんです。しかし、影との対決は、そういうことを要求してきたりするんですね。


人間はペルソナを形成せねばならず、また同時に、その間放っておいたものにも、やがて向き合わねばならなくなるのです。
作り、壊し、また構成しと、そういうしんどいことを、せねばならないようです。







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【投影】 



B「投影」


人間は生きていくために、保護装置のような、防衛のメカニズムを持っているのですが、「投影」もそのひとつです。

「影」は前述の通り、自身の受け容れがたい半面であったりしますが、それに気づくことは意識に大きな負荷を与えることになります。
自分の中に、今までの生き方とは逆なものが存在していることに気づくんですから、なかなかたいへんです。ある部分でキレイなことを望んでいる人が、自分の中に汚れた部分を見つけるのですから、これは堪りません。ショックな出来事です。(○○においてキレイに生きようとしている人が、自身の中に○○に汚い部分や、○○を望む部分を見出すのですから、堪らないものがあります)
で、そのままでは意識に大きな負荷がかかってしまうので、人間には「そういうことに気づかないでおく」メカニズムが、幾つか存在します。それに気づかないことで、意識がダメージを負うのを回避するんですね。

で、「投影」とは、自身の影を他者に投影することであり、例えば、自分の中の汚い部分を他者に投影することで、心の安定を図ろうとするメカニズムです。自分の中にある「それ」は意識せず、ないことにして、普段から気にかかる「それ」を、相手のものとして認識するんですね。
まあ、図るといっても、意識的にそうするのではなくて、むしろ無意識的に、人間の深くにあるメカニズムが、自動的にそうさせるのですが…。

例えば、「(自分のことを)棚に上げる」とか、「責任転嫁する」とかがそれで、自分のしていることは不問にしながら、同じようなことをしている相手をいちいち指摘し、ことさらに責めたりします。もう、徹底的に攻撃します。
自分は自分で認められないようなことを多々しているのですが、それは自分では否定していることだったり、汚いと思うことだったり、してはならないと常々思っていることなので、それに気づくことは、心に大きな負荷を与えることになります。つまり、耐えられないわけです。
で、そんなことで自我が壊れたら困るので、そういうことを全部目の前の、自分と同じようなことをしている人に投影して、自我がダメージを負うことを回避するわけです。(あの人はいつも××する。でも、わたしが同じ××をしていることはしりません、みたいな…)
で、猛烈に怒ったり、攻撃したりするんですね。
それもそのはず、それは自分が否定してきたものだし、もともと嫌いなことだし、同時に、いつも自分でしていることでもあるのです。いつもしないまでも、潜在的に、それを持っていることだったりするんですね。
だから、無意識ながら、気になって気になって仕方ない。

で、影はその役割として、自我に「お前だってそうしてるじゃないか!」みたいに囁きかけるわけです。
いや、まあ、囁きかけはしませんが、そういう風なことを何らかの手段で伝えようとするんですね。だから、自我の方は余計に腹が立つし、でも認められないし、で、結果として、その傾向を認めやすい、同じことをしている目の前の誰かを攻撃するわけです。
(自分がいつもしている○○や、自分が潜在的に持っている○○を、相手の中に見出し、あの人はいつも○○してばかりいるとか、あの人はいちいち○○にこだわるとか、そういうことを言ってしまうわけです)


この「投影」が集団で行われることもあります。
国家間の偏見、スケープゴート作りも、「投影」の所産でしょう。(あるいは、もっと狭い集団、地域などでも行われる場合もあるでしょう)
自分たちの背負いきれない影を、近くの集団なり個人なりに投影し、一気呵成に攻め立てているような場合もあるでしょうね。

また、自分の中の怒り、憎しみ、相手を傷つけたいという否定的な情動を、相手に投影し、結果、相手が自分に怒っているのではないか? 相手が自分を憎んでいるのではないか? 相手が自分を傷つけようとしているのではないか? などと感じてしまうことだってあるかもしれません。


「投影」は、自我の保護という意味で、有用なメカニズムですが、同時に、いつまでたっても自身の態度を修正できないという、困った面も持ちます。
人間は、自分の態度や行動を不問にしている限り、憤ることはできても、やり直すことは難しいようです。
ただ、影の性質を考えると、自分ではなかなか見えないわけですから、投影という手段は、自分の影を認識する上において、有用な手段でもあります。
つまり、自身ではなかなか見えない背後にある影も、何かに投影されることで、認識しやすくなるんですね。
例えば、「鏡」というものを考えるなら、鏡に映っている自分の姿をちゃんと見ない限り、身繕いなんかできないわけです。鏡の中の自分の姿を、他人のものとしている限り、それを指差して笑うばかりで、身を正すなんてことはできないわけですね。

自身の影を、相手のものとして認識している限り、それは単に腹の立つものだったり、攻撃の対象だったり、軽く笑い飛ばすものだったりにすぎませんが、それを自分のものでもあると気づいた時は、話が違ってきます。
それは修正のチャンスでもあるし、正すべき点を教えてくれるヒントでもあります。
(ああ、自分にはこういうところがあったのか、じゃあ――みたいな)

影を認識することは、なかなかしんどいことですが、影を認識しない限り、それに対応できないわけですから、それを少しずつでもやる必要がどうしても生じます。
自分のしていることを他者に投影している限り、何も変わりませんからね。
ですから、投影のメカニズムは、それを責任転嫁に使っている限り、自身への「保護」や「安定」、「不変」に留まりますが、それを己がものとして引き受けようとした時は、「変容」の手がかりになるのです。
ただ、それは「保護」の反面であり、「安定」の反面が生じるわけですから、苦しくもなるし、不安定にもなるんですね。

ただ、人間として成長しようとすると、どうしてもそういうことを経なければならなくなるのです。

影は自分の一部であり、自分から生じたものなのですから、それを引き受けないわけにはいかないんですね。
はじめ、投影などの防衛のメカニズムにより、自我は守られねばなりませんが、同時に、成長した自我は、それを引き受けねばならないわけです。
単に保護するだけでは、成長は望めないわけですし…。


人生の前半での「倫理」「道徳」は義務的(あるときは支配的)ですが、「影」を引き受けた人はそれを越え、当たり前に、自身の機能として、「倫理観」「道徳観」を持つことができるのではないでしょうか。そして、そういうものは簡単には揺るがないでしょう。

我々はいつか、不平を漏らすだけの存在から、脱せねばならないのです。







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【もうひとつの影】 



C「もう一つの影」


Bでは「投影」について述べましたが、「投影」もそれに気づき、『自身の「影」の認識 → 態度や価値観の修正』とつながれば、それなりに意味のあることだと思います。しかし、世の中には、どうしようもない影もあって、一方的に影を投影されると、困ってしまいますよね。

まあ、投影なんてものは誰でもやることだし、投影されるにしても、それ相応の理由みたいなものがあったりするんですが、投影があまりに強力な場合、理性や合理性というものはまったく不問にされ、自身の中にある否定的側面や劣等感を、事実関係などまったく関係無しに、相手のせいにし、責任転嫁する場合もあるようです。
だいたい、投影される時というのは、投影する方の影をされる方も持っていて、それを口実に投影は行なわれるわけですが、そういうものが殆どなくても、一方的に投影されるようなケースもあるようです。
投影もパターン化され、しかもその威力が強力になると、自分(自分たち)にとって不都合なことが生じる度に、「あいつが悪い」「あいつのせい」ということになります。
もう、事実関係など関係無しに、ともかく「あいつが悪い」「あいつのせい」ということになります。
それはもう、反射のように、そうなってしまうんですね。理性も合理性もなく、むしろ、一種のメカニズムのように、それが行われてしまいます。

あるいは、劣等感というものが計り知れないほど大きければ、特に何もなくても、あいつは人を馬鹿にしている、みんなを見下している、そうに違いない、となったりします。
自身の中の大きく強力な影が、手当たりしだいに投影先を見つけたり、あるいは、既に投影先がいつも決まっていたりして、ともかくそこに投影されるのです。
まあ、そうまでして、壊れそうな自我を守る必要があるんでしょう。

が、しかし、これをされた方は非常に困ってしまいます。なにせ、本人にその気がないのに(また、してもないのに)、そうに違いない、と決め付けられるのです。
あるいは、そういう噂を広められるかもしれません。
自分の態度に問題があれば修正すればすむことですが、こちらのしていないことを問題にされたのではどうしようもありません。
それは誤解なのだと言って通じればいいですが、「投影」する相手はなかなかそれを認めてはくれません。

これがひどくなると、投影するほうは、なんとしてでも相手の人格を貶め(おとしめ)ようとするかもしれません。自身の内的現実を、外的現実として証明しようと、奔走するかもしれません。
事実を歪曲したり、嘘をついたり、表情や所作にまで文句をつけ、非難することもあるかもしれません。仕舞いには、「何か嫌い」とか「とにかく嫌い」と言うことだってあるでしょう。何か適当な口実を見つけては、「それみたことか」と、関係ないことまで、自分の求める結論に結び付けるかもしれません。
ともかく、悪いのは相手であって、自分であっては困るのです。
そういう流れが、その人の中に、出来上がってしまうんですね。

こうして、ありもしないことで非難されるのですから、投影された方はお手上げです。
その上、こちらの意見は聞き入れてもらえないのだから、どうしようもありません。

多くの場合は、投影されるほうにも「影」があり、そこを指摘され、投影されるわけですが、こういう風になると、事態はこんがらがっていきます。
しかし、こういう例は非常に稀で、投影されるほうに何の落ち度もないということは、少ないんでしょうね(というか、殆どない)。人間のやることですから、まずい点はあるわけで、そういう意味では、投影されるだけの理由が、ある程度はあるわけです。
ただ、投影も病的なほど強力になると、そうもいっておれず、何でもかんでも、そして、何が何でも、自身の影を相手に投影するといった、事態も生じるのかもしれません。

そうなると、さすがに困ってしまいますね。
こちらには相手の思うような意図はなく、そのような態度や行動もとっていないのに、手前勝手に投影され、非難されてしまう。
こちらの態度を修正しようにも、修正すべき材料がない。
仮にこちらが折れて下手(したて)に出ても、相手は納得しない。
それもそのはず、「影」は相手の中にあり、こちらにないのです。
相手が自分の影を認めない限り、際限がありません。
こちらが奴隷になってでも、相手は投影を続けるでしょう。

ただ、繰り返しますが、このような一方的なケースは少ないようです。
少なからず、影に関連する態度や行動を(知らず知らず)とっているケースのほうが多いでしょう。
ただ、こういうケースもないとはいえませんね。
病的な事例も、やはりあるのではないでしょうか。

だから、こういう事例に巻き込まれて、いらぬ非難をせぬよう、じっくり見るという行為は大事かもしれません。検証もなしに、投影に支配された主張に呑み込まれるのは、危ういかもしれませんね。
相手の言うことに耳を傾けるにしても、それが外的にも現実なのか、それとも内的な現実が強調されたものなのか、見ておくことも必要なようです。

してもないことで責められるのは、そりゃもう、つらいことですよ。
そして、やがてそれは攻め手側にも返るわけですから、不毛ですよね。

投影によって血が流れ、しかも、それが何の根拠もないものだったりしたら、救いがありません。
そういうことが出来るだけ生じないように、そばにいる人もまた、ちゃんと見るということを徹底しなければならないように思います。

(投影に呑み込まれたり、一緒になって投影しだすと、怖いですわな)

そして、こういうことが収束するには、何より時間がかかるわけですから、
例え善意でも、いらぬ行動はつつしみ、人のことはそっとしながら、しかし、自身のことは律して、じっと待たねばならないのかもしれません。







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【コンプレックス】 



『コンプレックス』(complex)


「コンプレックス」は初め、「感情によって色づけられた複合体」(feeling-toned complex)と呼ばれました。

あるいは、
「一つの元型によって結ばれた心の束」
「一つの感情によって結ばれた心のまとまり」
という表現もされます。

それは「複合体」であり、「束」であり、「まとまり」であって、同じようなものが、核にある(体験の)引力によって集められ、塊になっているのです。

自我が受け容れられないような体験は無意識に抑圧され、コンプレックスの核となります。そして、その核に、同じような感情を伴なう体験が絡み合い、束となります。
これが「コンプレックス」であり、「束」や「まとまり」、「複合体」と呼ばれる所以(ゆえん)ですね。


例えば、幼い時に父親から虐待を受けたような場合、それは到底、幼い自我が受け容れられる範囲を超えていますから、多くの場合、無意識下に抑圧されます。そうでないと、自我が破綻してしまうかもしれません。心が壊れかねません。
これが「コンプレックス」の核となる体験になります。
その後、この人は成長するにつれ、男性の暴力的なところ、攻撃的なところ、支配的なところを目の当たりにします。
それが他の人にとっては、男性として(あるいは人間として)許容範囲のものであったとしても、父親による虐待を受けた経験のある人にとっては、許容範囲として受け容れられません。当然、そのようなことには敏感になりますから、他の人がスルーするようなものも、自動的に拾い上げてしまいます。
そのような行為は、父親の虐待と同位とみなされ、同じくくりとして受け取られ、同一のものとして処理されるんですね。
但し、そういうところは意識できませんから、半ば無意識的に、そういうこと(自動処理)が行なわれるわけです。
意識に上るのは、何となく(あるいは、ともかく)、男性というものは暴力的だ、攻撃的だ、支配的だ、そうに決まっている――というところに落ち着いてしまいます。
(また、それは部分としては正しいのです)

他の人が、「男性の暴力性、攻撃性、支配性も、人間であれば、ある程度は誰しも持つものであり、また実際、誰かに対し、暴力や攻撃を加えたわけでもないし、支配しているわけではないじゃないか」と言っても、その人には納得できません。
「きっと、暴力を振るうに決まっている」、「きっと、攻撃するに決まっている」、「きっと、支配するに決まっている」――そういう考えになってしまいます。

また、何かしらの事件が起こった場合、それがすべてであるかのように取り上げ、「ほ〜ら、やっぱり思ったとおりだ」となったりします。
過去のショック体験により、核のようなものが形成され、同じようなことはすべて(些細なことまでも)それに取り込まれて、束になって大きくなっていきますから、「男性=暴力的」という強固なパターンが出来上がってしまうんですね。

こうなると、物事を分けて考えられません。部分と全体が、ごっちゃになってしまいます。

一つのコンプレックスのフォルダが作られてしまうと、それに近しいものは、何でもそのフォルダに放り込まれてしまいます。
そういう作業が、無意識のうちに、行われてしまうのです。
男性というものにコンプレックスを持ってしまったら、世の男性の殆どは、男性というフォルダに放り込まれ、コンプレックスを伴なった感情と共に処理され、認識されます。
そしてすべての世の男性は、暴力的、攻撃的、支配的、そうに決まっている――そう認識されてしまうのです。


コンプレックスに支配されてしまうと(その関連項目は)、「きっと、〜に決まっている」や「きっと、〜に違いない」という思いに支配され、冷静な判断・認識ができなくなってしまいます。
無意識的に関連事項がフォルダに放り込まれるように、無意識的に同じような体験が核に巻き込まれ大きくなっていくように、その人の意識もまた、パターン化された「それ」に呑みこまれ、「A=X」というような固定化された判断が下されてしまうのです。

上記のような例をとれば、男性の中には暴力的な人も、そうでない人もいるし、それを内在的に持っていたとしても、それを現実世界で行うとは限らない――そのような当たり前の判断ができなくなってしまいます。事実を認識する以前に処理されてしまうので、意識ではどうこうできないんですね。意識で処理する前に、まるで反射のように、無意識のうちにそう処理されてしまうのです。
だから、それを人間のせいにはできませんわな。意識する前に処理されるんだから、それはもう、生得的なメカニズムにも近しく、ともかくそうなってしまうものです。自動的に処理されてしまうんだもの。
それにコンプレックスを抱えるには、それ相応の体験をしてしまっているということだから、なおさら責められたものではありません。むしろ気の毒な場合の方が多いでしょう。

ただ、どうしても困ったことが生じてしまうという、悲しい現実があります。



コンプレックスはそれ自体がある程度自律性を持つので、自我ではコントロールできず、したがって自我に影響を与えます。(噛み砕くと、こちらの知らないうちに、向こうが影響を与えてくるわけです。そういう風に、向こうは意識の統制を越えて、活動してくるんですね)
コンプレックスに苦しむのは、そういう理由からです。
自我はコンプレックスの存在を知らず、それによってもたらされる現実的な不都合に振り回されるばかりです。
(何で私はいつも○○と思ってしまうんだろう、△△になってしまうんだろう、と)


こいうメカニズムを鑑みると、コンプレックスを何とかしようと思えば、その核となる、今現在、意識とは分離された経験を、何とか意識に取り込む必要がでてきます。
核の部分を認識できないから、何でもかんでも、それと同じように巻き込んで処理してしまうのです。
但し、それは意識に取り込むには困難だから、無意識で核になったのであって、それを認識するのは、なかなか難しいようです。当たり前に、意識の方は拒否反応を示すでしょう。

しかし、もう一面では、過去そういう経緯で無意識に追いやられたものの、現在の自我の状態においてはどうなるか分からない、という点もあります。
人間が成長するうちに、自我もそれなりの強さを持ちますから、今ならどうかというのは、正直分からないわけです。できるというわけではないけれど、同時にできないというわけでもなく、分からないのです。
ただ、コンプレックスのほうは活動を続けるし、それによって周囲と軋轢ができたり、いろいろと困った問題も生じてくるわけですから、向き合わざるを得ないといった事態になってくるんですね。

だからこそ、なお苦しむのだと思います。
気づいたり、思い出すのはつらい。でも、向き合わないことには、現状は解消されない。
そういったジレンマの中で苦しむのだと思います。
(ついでにいうと、意識でき始めているから、うすうす気づいてくるのであって、なお苦しい――ともいえるでしょうか)
保護という意味ではそれを見る(認識する)べきではなく、変容という意味では見なければならない。対決しないほうが安全、でも対決しないことには現状のまま。
そういう苦しみの中で、勝負しなければならない。
過去の弱いままではない、かといって度を越えて強いわけでもない。
その中で、対決せねばならない。

そういう難しさが、コンプレックスとの対決にはあるのでしょう。
それは簡単に、○○すればいいじゃん、なんて言えるものではないのです。


何らかの核になっている体験を認識し、意識に取り込むことができれば、そこにからまっていた束も、解く(ほどく)ことができるんでしょう。
核になる体験を明確に切り分けることによって、その他のものと混同することも、段々となくなってくるんでしょうね。
一つひとつ、今までこんがらがって絡み合っていたものが、分けられていくわけです。

ただ、コンプレックスというのは複雑で、例えば上記の件では、親への「感謝の気持ち」、「絆」、「愛」、「慕う気持ち」、「一瞬でも気持ちの通い合った体験」などが、虐待されたことへの「怒り」、「非難」といった感情を持つことを邪魔してしまうこともあるかもしれません。
(あるいは、社会通念みたいなものが邪魔することだって、あるかもしれない)
(どこかの誰かが、親切心から余計な口を出すことだってあるでしょう)
しかし、別に二者択一的に考える必要はありません。
親である以上、「感謝の気持ち」も「絆」も「愛」も「慕う気持ち」もあるでしょう、それを否定する必要はありません。また同時に、虐待を受けたのだから「怒り」や「非難」の気持ちもあって当たり前です。親としては慕い、虐待を行ったことに対しては怒り、非難すればいい話です。
これはどちらも正しい感情であり、ともかく、そこにある感情なのです。
どちらか一方だけを選ぶ必要もないし、どちらかの感情を殺す必要もありません。

ただ、そこにあるそれぞれを、そこにある一つひとつを、正直に、受け取っていけばいい話です。
そんなものは誰に邪魔されるでもないし、自身のそれとして、正直に受け取っていけばいいんです。
事実も、それによって持たされた感情も、誰に邪魔されるでもなく、自身のそれとして噛みしめればいい。
そういうのも、絡み合ったものを解く、ヒントになるかもしれませんね。
(まあ、その余裕があれば、ですが…。疲弊している時にやることもないでしょう)


こういうことは簡単に割り切れるものでもないし、公式的に当てはめられるものでもないですが、そういう難しい仕事を、時間をかけてじっくり少しずつ、深刻なダメージを受けない程度に、やっていけばいいのだと思います。
それは簡単な仕事ではありませんが、それによって生じる、新たなものもあるはずです。

業(ごう)をもって生きるのはたいへんですが、業を受け容れることで得られる、かけがえの無いものもあるかもしれません。
乗り越えた者だけが得られる、そんな宝もあるかもしれません。



関連記事:「コンプレックス、その破壊と創造」







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【劣等感コンプレックス】 



「劣等感コンプレックス」


我々に一番馴染み深いコンプレックスが「劣等感コンプレックス」かもしれません。
コンプレックス全般を、劣等感コンプレックスだと思っている人も多いのではないかと思います。

「私は勉強できない」
「私はスポーツができない」
「私は美しくない」

実は、このようなケースは、劣等感コンプレックスとは言えません。

では、どういうことを劣等感コンプレックスと言うのでしょうか?

「私は勉強できないから、まったく駄目な人間だ(お先真っ暗だ)」
「あの人は勉強できるから、まったくもって、素晴らしい(素晴らしい人生を送れるに決まってる)」
「あの人は勉強できるから、頭の固い冗談も通じないような、つまらない人間に決まってる」

「私はスポーツができないから、まったく駄目な人間だ(お先真っ暗だ)」
「あの人はスポーツができるから、まったくもって、素晴らしい(素晴らしい人生を送れるに決まってる)」
「あの人はスポーツができるから、頭が悪いに決まってる」

「私は美しくないので、まったく駄目な人間だ(お先真っ暗だ)」
「あの人は美しいから、まったくもって、素晴らしい(素晴らしい人生を送れるに決まってる)」
「あの人は美人だから、お高くとまっているに違いない」

こういう風に思ってしまうのが、劣等感コンプレックスだと思います。
(「劣等感コンプレックスを持った状態」と言った方がいいかもしれません)
「偏見」によって事実をそのまま受け取ることができず、その他のことを巻き込んで混同し、「決めつけ」てしまっています。
事実関係を無視して、「そうに決まってる」となってしまってますよね。
劣等感によって、その周囲にあるものまで巻き込まれ、混同された塊になってしまっています。余計なものまで、ついて回ってしまっているのです。
それをよいものと捉えているか悪いものと捉えているかは別にして、自動的に判断が下されていますよね。
目の前のものを見て、冷静な判断ができていません。
コンプレックスによる、無意識的な自動処理がされているわけです。



例えば、「勉強できないから、まったく駄目な人間だ」ということはないわけで、勉強は苦手だけどスポーツはできるとか、自分の好きな趣味には詳しいとか、あれができるとか、これが得意だとか、いろいろあると思います。

また、「あの人は勉強できるから、まったくもって、素晴らしい(素晴らしい人生を送るだろう)」ということもないようです。勉強できるがそれを悪いことに使う人もいるし、勉強できるが毎日が楽しくない人だっています。
勉強はできるけども実生活では苦労している人も、大勢いると思います。

「あの人は勉強できるから、頭の固い冗談も通じないような、つまらない人間だ」ということもなくて、勉強できるし、楽しいことを言う人もいます。
そんなことは付き合ってみないと分かりません。

これらは、ニュートラルな状態でその人を見ないと分からないことです。
(逆に言えば、ニュートラルな状態で見れば、ある程度、分かることです)
ただ、コンプレックスがそれを困難にし、勝手に処理してしまうんですね。事実関係を見る前に、勝手に決めてしまうわけです。そういうものだと、振り分けてしまうのです。



これは「スポーツができない」場合も同じで、スポーツができないからといって、人格否定されるようなことを言われてはたまらないし、自分でそう決め付けることもないです。

また、「スポーツができる人」を、事実以上に持ち上げることもないし、事実以下に貶す(けなす)こともないでしょう。

スポーツができることが全てではないし、スポーツができないことが全てではありません。
ただ、コンプレックスの働きが、それを全てと思わせてしまうのです。



これは自分の容姿に劣等感をもっている人にも言えます。
美しさによって全てが決まってしまうなんてことはないのですが、コンプレックスによる無意識的な働きにより、褒めるにしても貶すにしても、まるでそれで全てが決まってしまうが如く、思い込んでしまうのです。



このように、無意識的な働きにより処理されてしまうのが、コンプレックスの特性です。
「私は××だ」「私には△△が足りない」と意識できているような間はコンプレックスとは呼べないのですが、それを中心として、他のことまで混同したり巻き込んだり、合理性を無視した判断が自動で下されているような場合が、コンプレックスのそれなんですね。

コンプレックスには、無意識内の強い働きがあって、そういうものが意識の統制を越えて表れてくるのです。
また、そうなるには、そうなるに足るだけの、強い体験が存在するということになりますね。(ショック体験があったりします)


ともかく、「わたし××なんだ〜」なんて気軽に言えているようなものは、本来の意味での、コンプレックスとは無縁のものなんでしょう。
(単なる劣等感だと思われます)
(まあ、気軽に言っているようで、すごく気にしている場合もあるので、その辺もよく見てみないと分かりませんが…)



参照【三省堂「大辞林 第二版」より】
goo辞書:劣等感
>自分が他より劣っているという感情。








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【アニマ・アニムス】 



「アニマ・アニムス」(anima・animus)


ユングは、男性の中の女性的元型を『アニマ』、女性の中の男性的元型を『アニムス』と呼びました。
(アニマとは、ラテン語で「魂」を意味します)

男性の場合、一般に、強さ、判断力、たくましさなどの、いわゆる「男らしさ」を外的に求められますが、それを補償するものとして、内的に、「アニマ」との対決を通して、弱さ、柔和さなどを体験し、それを互いに統合させることにより、より完全なる存在へと成長し、近づくのです。

これはもちろん、女性と「アニムス」との関係にも言えます。
つまり、一般には、柔和さ、やさしさ、待つことなどを、外的には求められるのですが、「アニムス」との対決を通して、強さ、意見すること、判断すること、運命に立ち向かうことなどを学ぶのです。

(上記二つとも、最近では違うかもしれませんが…)

「外的に求められる」と書きましたが、多くの場合、そういう下地を生まれながらに持つという面もありますね。まあ、この辺は、「必ず持つ」と言えるものではなく、ということは、求められるものと逆の性質を持って生まれることも少なくないということになります。
まあ、実際のところ、男にしろ女にしろ、上記のような性質を両方持つわけで、その割合というのは、「100対0」や「90対10」というものではなく、むしろ、「55対45」とか、そういう微妙な差なのではないかと思います。


このアニマ・アニムスですが、その対決の初期段階では、その未熟さが現れる場合が多いようです。というか、生まれ持った性質でも、普段から使い慣れないと当たり前に未成熟なわけで、そういう道を通って成長するんですね。
今まで眠っていた性質と対面するんですから、そりゃ驚くかもしれないし、敏感かもしれないし、戸惑うかもしれないし、いろんな意味で未成熟です。そして、それと関わっていく過程で、段階を経て成熟していくんでしょうね。

男性の場合は、アニマの初期段階では、自分の内的な弱さに気づき、戸惑うこともあるでしょうし、落ち込んだりもするかもしれません。
女性の場合も、アニムスの初期段階では、どこかの新聞から拾ってきたような安い一般論で武装し、その例外を赦さぬ態度で、自分や周囲を苦しめる場合もあるかもしれません。それに気づいて恥ずかしい思いをすることもあるでしょう。
ただ、こういうことは誰にでもあって、いわば通過儀礼のようなものです。その先に進むための、通過点ですね。


アニマ・アニムスは、ペルソナと対をなすものです。
ペルソナを「外的に適応した態度」と考えるならば、アニマ・アニムスは「内的に適応した態度」と考えられます。
また、ペルソナが自我や周囲(外的世界)の影響を強く受けながら形づくられる一方で、アニマ・アニムスは無意識や内面(内的世界)の影響を強く受けます。
ペルソナが、外界に対して適応するために、周囲の空気を読み、自我で正しい態度を学んでいくのに対し、アニマ・アニムスは、そのようなペルソナを補償する内的な要求でもあります。
したがって、アニマ・アニムスは、タイプ論でいうところの「劣等機能」と結びつきやすいようです。
つまり、普段の生活や態度などから、目立って欠けているものと結びつきやすい面があります。

そういうことを考慮すると、アニマ・アニムスを橋渡しとして、自我が自身の自己と向き合っていける、という風にも言えるでしょうか。
そうやって、今まで欠けていたものを、取り込んでゆくのです。


アニマ・アニムスは、自我が生きていない反面・半面という意味では、「影」と重なりますが、影が自我に近しい存在であるのに対し、アニマ・アニムスは、もう少し離れた存在です。
自我が夢の中で同性として表れるのに対し、アニマ・アニムスというものが異性として表れるのは、そのためです。
同性ということは自分に近く、異性ということは――人間としては同じなんだけれど――離れた、ある意味、対極に位置するものなんですね。
そういうものと関わることによって、今まで足りなかったものを補完したり、今まで生きていなかった面を生きることになるのです。

男がこの世で男として生きながら、やがて女性的な面も取り入れ、人間として成熟してゆくんですね。
また、女がこの世で女として生きながら、やがて男性的な面も取り入れて、人間として成熟してゆくわけです。
そういうことを、人間の内面の深い部分と向かい合うことで、成してゆくのです。
(単に性が反転するのではなくて、一方をある程度確立した後、もう一方と向き合い、それを取り込んで、より完成された存在へと近づくのです)


アニマ・アニムスは、実際の結婚や恋愛とも関係します。
このとき、パートナーに対し、自分のアニマ・アニムスを投影し、要求ばかりを続けるならば、ややこしいことになるかもしれませんね。
相手にばかり要求するのですから、自身の内部からの(自身が変わるための)要求は果たされないことになりますから、課題は残されたままです。
自身の奥の、アニマ・アニムスとの契約は果たされません。


このように、他の元型と同じく、アニマ・アニムスもまた、それを他人のものとして扱っている間は(安全だけれども)虚しいのですが、それを自分のものだと受け容れ、付き合おうとした時、(それはなかなかつらい道ですが)今まではなかった未知のものを得られるんでしょうね。
それは自分の、ずっとずっと深いところにあるものなんですから。



やさしいユング心理学:第七章 アニマ・アニムス



参照【三省堂「大辞林 第二版」より】
goo 辞書 [アニマ]:ユングの用語。男性の心にある無意識的な女性的傾向。
goo 辞書 [アニムス]:ユングの用語。女性の心にある無意識的な男性的傾向。







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【トリックスター】 



「トリックスター」(trickster)


トリックスターとは、昔話などで、いたずら者、ピエロ、ペテン師などの像として現れるモチーフです。
但し、単なる騒がせ屋やイカサマ師としては終わりません。そこには変容や創造が生じるんですね。

特徴としては、その登場時には、「価値が低い」と思われる点が挙げられます。
実際、昔話においても、現実問題においても、トリックスターはその登場時には、「厄介者」や「迷惑者」として扱われます。
昔話などでは、意味のないような悪戯(いたずら)をして迷惑がられたり、非難されたり、あるいは、その場にそぐわない騒動者として現われ煙たがられたり、人を騙して追いかけられたりもします。

ただ、大事なのは、そのトリックスターの活躍のおかげで、「終わってみれば、うまく収まっていた」とか、「終わってみれば、いい方向に向かっていた」というところに落ち着くという事実です。

初め、迷惑だと思われた存在のおかげで、結果的に、うまくいくのです。
そのおかげで、場やその集団なり構成員たちが、変わっていたりするんですね。


このモチーフは、日本の昔話にもみられ、吉四六(きっちょむ)や彦市の話がそれにあたるでしょう。
このような像は、初め、村人に悪戯をしたり、場を騒がせたりするわけですが、その愉快さに昔話を読む方はニヤニヤさせられたりします。但し、主人公の周辺の者にとっては迷惑な話で、当然、主人公を低く扱っている場合が多いようです。(この辺は、日本においては、迷惑だけど憎めない奴、という像で描かれている場合も少なくないかもしれません)

このいたずら者、厄介者として扱われた主人公は、物語の後半では、その「とんち」や「機転」、「ずるさ」を駆使して、権力者や支配者、時には天狗などから宝を奪い、時にはそれを村や村人に還元したりします。
(単に、力あるものを引き落として終わる場合もあるかもしれません)

初め厄介であったり、村人に迷惑ばかりかけていたような存在の活躍で、(一般人が手を出せなかった)権力者が失脚したり、権力者の独占していたものが村人に還元されたりして、その場が良い方向に向かうのです。


このような像は、現実世界にも現れるようです。
例えば、いつも悪戯ばかりして親を困らせる子供とか、引きこもることで社会から低く見られている者、いつもおかしな見解を示し笑われている者――などがそれでしょうか。

このような場合、いつも悪戯ばかりしている「困った子」との対決を通して、家族の問題に目がいき、結果、家族の関係がよい方向に進む場合もあります。
あるいは、引きこもっている「困った人」と向き合うことで、その奥に隠された問題が浮かび上がり、その対決を通して、本人にも周囲にも変容がもたらされる場合もあるでしょう。
また、いつもおかしなことを言う人の意見の中に、その時代の価値観や閉塞した体制を打ち破るような可能性が見出されるような場合もあるかもしれません。
(因みに、「困った〜」という表現を使いましたが、実際にこれらの人がそうであるとは限りません。ただ、周囲の人間が、そう思っているだけです。…あるいは、本人もそう思っているかもしれませんが)

但し、断っておきますが、「困った者」になることが素晴らしいのではありません。
そういう状態を通して、建設的なものを創造したり、丸く収まっていくのが素晴らしいのです。
言い方をかえれば、そういう「困った者」が現れたり、「困った事態」が起きない限りは、閉塞した状況というのは打破されず、つまり、「困った存在」により場が破壊されることで、変化が生じ、収まるところに収まっていくんですね。
で、そこに変容や創造が生じれば素晴らしいことだし、破壊に留まれば、価値が低いことになります。価値云々は別にしても、つらいですわな。


トリックスターはいつも有効に働くとは限りません。
未熟なトリックスターは単なるいたずら者や厄介者で終わったり、その場や空気を壊すだけの破壊者に留まるかもしれません。
逆に、トリックスターが高次の働きをするような場合は、新しい秩序や価値観をもたらす、英雄となる場合もあるでしょう。
また、トリックスターが大活躍しても、その周囲の者に変化を受け容れるだけの度量がない場合は、トリックスターは破壊者として断罪されるに留まるかもしれません。
変化するということは、個人が変容することにとどまらず、場や周囲の人たちも変容することを意味するのですから…。(頑なに変容することを拒み、結果、変化を招く人を殺しているような場合もあるかもしれません)

そうすると、場に変化をもたらそうと(無意識的に)頑張っているトリックスターが、単なるいたずら者や破壊者として、断罪されている場合も少なくないのかもしれませんね。
そして、その裏では、その先にある可能性まで殺されているのです。
(もっとも、何でも壊せばいいというものではありませんが)


このようなことを考えると、身近に生じている様々な困りごとにも、トリックスター的な要素が存在するのかもしれません。
それを厄介者として断罪している場合には変化は生じませんが、そういうものと付き合っていると、破壊という痛ましいことが生じる半面、その次に創造の芽が生じるかもしれません。

無意識にはそういうところがあって、無意識から生じる厄介ごとに我々は悩まされたりしますが、それを頭から否定している間は苦しいだけで変化は起こらないものの、それと付き合ってゆくとき、「今まで」の破壊と共に、「これから」の芽生えを感じることがあります。

変化とは破壊することでもありますから、どうしても、こういう破壊と創造をつかさどる(はじめは)困ったと思える存在と、付き合わねばならないのかもしれません。

そういう意味では、病気とか症状も、トリックスター的な要素を持つわけですね。
そして、騒動のあと、結果、うまいこと事態が収束した時にはトリックスターの姿が消えていたりするように、困りごとや症状というものも、その時には役割を終えて、姿を消すのかもしれません。
あるいは、騒動師を突き抜けて主人公が英雄になるように、その破壊と創造を経験したあと、厄介者が立派な存在になったりもするのかもしれません。


このように、トリックスターというものは、騒動師であり、場をかき乱す存在であり、それと同時に、新しいものをもたらす存在でもあります。
そこには破壊と創造があるんですね。




参照【三省堂「大辞林 第二版」より】
goo 辞書:トリックスター
(1)詐欺師。ぺてん師。手品師。
(2)神話や民話に登場し、人間に知恵や道具をもたらす一方、社会の秩序をかき乱すいたずら者。道化などとともに、文化を活性化させたり、社会関係を再確認させたりする役割を果たす。







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【個性化/個性化の過程】 



「個性化/個性化の過程」



ユングによれば、「個性化とは、すべての生物が――単純な場合も複雑な場合もあるだろうが――そうなると最初から決められていたものになっていく、あの生物的過程のひとつのあらわれである」と言われています。

本来の意味での「理想像」に近づく、と言ってもいいかもしれません。
ここで「本来の意味での」と言ったのは、この理想像が「自我で考えたもの」ではなく、どちらかというと「自己が求める」理想像だからです。
(無意識の深いところにあって、はじめから内在している、そんな理想像・到達点ですね)

我々の心の奥深くには、そういう核となる人間の像があって、そういうものは無意識の領域にあるので意識では把握できませんが、人間の最終到達点というものは、そのような人間の像を、この世に我が身を通して顕現させることだというのです。
だからユングは、「そうなると最初から決められたものになっていく」と言ったんですね。
それは、「生まれ持ったもの」と解釈してもよく、それは意識では捉えられないので忘れられがちですが、我々が真の意味での自分自身になってゆく、核や指針のようなものなのでしょう。
我々は社会で生きていると、そういうものを蔑ろにしてしまいますが、そういうものを見出し、活性化し、何らかのカタチで表現したり、花咲かせることが、個性化なのかもしれません。

したがって、そういうものは自分でなりたいと思っている像や、その時代の流行や良いとされている像とは限らず、むしろ、違っている場合が多いのでしょう。
それは意識的な理想を越えて、ずっとずっと奥に眠っている、隠された像なのです。

「個性化」には、「完全なる人間になる」という意味もあります。
ただ、この辺の解釈は難しくて、「自我と自己のバランスが取れた状態」であるとか、「自分の性と、自分の中の異性(アニマ・アニムス)の折り合いがついた状態」であるとか、「ユングのいう『全体性』が達成された状態」であるとか、いろいろと捉え方があると思います。


ユングはまた、個性化について、「『私たち一人ひとりの中の、二百万年前から生きている人間』を、現代を生きる一人ひとりと統合していく作業である」といった風にも言っています。

「私たち一人ひとりの中の、二百万年前から生きている人間」とは、「はじめの人間」とも「普遍的無意識の中心にある人間像」ともとれるでしょうか。あるいは、「人間そのもの」といってもいいかもしれません。
そういう本来の意味での人間というもの(あるいは、そんな人間の像)を、今を生きる自分と統合していく、それが「個性化」といえるのかもしれません。
そういった像を、我々が生きる現代に、何らかのカタチで表現しようというのが個性化です。

そして、そんな人間の像を伝えてくれるのが、「夢」ですね。
夢は自我の支配を受けず、更に、無意識と深くつながっていますから、そんな像を「象徴」などの表現で伝えてくれます。

こういう風に考えると、すべての人間が目指すものは同じなのかとも思いますが、その根本が同じであるにしろ、今という時代に生きる我々一人ひとりの人格や、それを取り巻く状況は違うわけですから、その統合された姿、表現する形式、なるべき像は一人ひとり違うわけで、一人ひとりの人間が、自分だけの像を目指すことになります。
(同じ核「X」を持っているにしても、それを「A」として表現したり生きたりする人もいれば、「B」として表現したり生きたりする人もいます)


このように、「個性化」の像は多分に無意識的要素に彩られているわけですが、それゆえに、自我の思う像とは相容れない場合が多いようです。(自我と無意識は基本的に相容れなかったり、正反対であるわけだし、それゆえに欠けた部分を補えるともいえます)
ですから、「個性化」の道を歩むということは、「自我と無意識とのジレンマに苦しむ」ということでもあるだろうし、ある時はバランスを崩し、病的症状を訴えることさえあるでしょう。
社会で生きるつらさを味わうかもしれないし、言葉にできないほどの孤独を経験するかもしれません。
但し、別の見方をした場合、その人にはそうしてでも「なるべき像」があるということで、別の言い方をすると、「その価値がある」とか、「そうなるだけの可能性がある」ともいえるのかもしれません。

「個性化」というのは、苦しい道だし、危険な道だし、孤独な道でもあります。それは安易に理想が達成できるといったバラ色の道ではなく、むしろ棘(いばら)の道でしょう。だから、軽い気持ちで足を踏み入れると、大変なことになると思います。また、そういう気持ちでは続けることができず、引き返すことになるでしょう。
ただ、無意識的な欲求というのはこちら(自我)にはどうこうできないものだし、個性化の道を歩む人というのは、いやおうなしに歩まされるわけで、こちらにはどうしようもできない部分が多いように思います。
とはいえ、この世界に生きる我々は、意識的な選択もしなければならないわけで、どうしようもないことは、いつか受け容れていくしかないですね。
我々の苦しみの幾分かは、それを拒否していることで生じているわけだし。

この辺は仏教でいうところの「業」(ごう)にも似たものがあて、そういう業をもって生まれた人というのは、その業と付き合うしかないようです。


「個性化」という言葉は単体で使用されるよりは、「個性化の過程」という表現で使われることが多いと思います。
これは、「個性化」というものはある期間で成されるものではなく、むしろ人生のすべてを通して成されるべき仕事だからです。常に「過程」なのです。


アンソニー・スティーヴンズは下記のように、「個性化」の段階を分かりやすく説明してくれています。

個性化とは、
「親や文化的環境から押しつけられた分裂状態を克服し」
「ペルソナという見せかけのおおいを捨て」
「自我防衛をやめ、」
「自分の影を他者に投影するのではなく」
「何とか影を知り」
「それが自分の内面生活の一部であることを認め」
「個人的な心のなかに住んでいる異性的な人格と折り合いをつけ」
「『自己』の至上の意図を意識的に実現しようと努めるのである」



更にユングは以下のように言っています…

「目標は観念としてのみ重要である。本質的なことは目標へと向かう仕事(オーパス)であり、それこそが人生の目標である」

「もし長寿が人類にとって何の意味も持っていなかったとしたら、人間は七十歳や八十歳まで長生きするはずがない。人生の午後はそれなりの意味を持っているはずであり、人生の朝のみじめなおまけであるはずがない」



このような仕事と向き合うことは真に苦しいことですが、その意図を汲んで真の意味で向かい合ったとき、人間は豊かにもなるし、叡智に包まれながら成長できるのだと思います。



参照【三省堂「大辞林 第二版」より】
goo 辞書:「個性化」
>精神分析学者ユングの用語。
>個人に内在する可能性を実現し、人格を完成していくこと。個体化。







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【共時性】 



「共時性」(synchronicity)


共時性とは「意味ある偶然」としてよく表現されます。
(あるいは、「意味ある偶然の一致」)

例えば、知人が亡くなる夢をみて、起きた途端に電話が鳴り、そこで実際にその人が亡くなったのを知らされる――といった現象も「共時性」的な出来事です。いわゆる「虫の知らせ」というものでしょうか。

他にも、カウンセリングの途中などで子供が事故にあい、親があわてて駆けつけ、親身になって介抱するが、あとになってみると、その時にこそ、親子のスキンシップが必要であった――などと思うことも、「共時性」的な出来事でしょう。

共時性の特徴としては、
@あくまで偶然であって、因果律を持たないこと
Aそこに意味深い意義が隠されていること

などが挙げられます。(但しAについては、微妙な部分があります)

共時性は上でも述べたように、因果的には説明できません。
例えば、「虫の知らせ」などの例では、その人が亡くなる夢を見たから→その人が亡くなった、という説明はできません。(それが成立すると、夢の出来事がいちいち実現されなければなりません)
とはいえ、心理的に大きなパワーを持っているのは真実だし、そこに意味深さを感じることも特徴の一つです。
また、それだからこそ、カウンセリングの場で役立ったりします。

ただ、この「共時性」の扱い方は難しい部分があり、安易に多くの現象を共時性だと喜んだり、こじつけても意味が薄いし、カウンセラー側だけが共時性だと喜んで、クライアントさん側に押し付けても価値は低いでしょう(時には害悪に働く場合もあるかもしれません)。カウンセリングの場でいうなら、カウンセラーとクライアントさんの関係の中で、両方が意味深さを感じるのが重要になるようです。
そこに言葉にならない「!」というものがあるからこそ、心的な影響が出てくるのかもしれません。また、そういう心的な影響が、目に見える現実的な影響も生むのでしょう。

また、カウンセラー自身が自分の人生で「共時性」を十分体験し、それを活かせていれば、カウンセリングの過程で起こる共時性的現象を見出すことも可能になり、安易に喜ぶことも少なくなるのかもしれません。

当たり前ですが、共時性的現象を自分で「起こす」ことはできません。
あくまで、そこに起こっている共時性的現象を「感じたり」「認知したり」するということです。
ですから、熟練したカウンセラーは、共時性を感じたり、認知するのがうまかったり、見逃すことが少ないと言えるのかもしれません。

「共時性」を示す例としては、「雨降らし男」の話がよく挙げられます。



時々、テレビなどで「共時性」という言葉を耳にしますが、いちいち神秘的な共通点を見出して喜ぶという行為は、果たして意味があるのかどうか…







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【無意識】 



■無意識

心の中の、意識できない、深い部分。
広い意味での、心のありよう、人間の内界のありよう。

意識できない部分を含めた――意識できる部分を越えた――心のありよう、人間の内界のありよう。


三省堂「大辞林」によると、

>〔心〕 通常は意識されていない心の領域・過程。
>夢・瞑想・精神分析などによって顕在化(意識化)される。
>潜在意識。深層心理。



意識を補完する機能を持つと思われる。
限られた意識をサポートするともとれる。

意識とは絞ったり、限定することでもあるが、その相対する存在である無意識は、無限の広さを持っている、故に、無意識。

人は部分を意識できるが、全体を意識できない。
人の意識できる全体は、もっと広い全体の部分である。(*1



■個人的無意識

比較的浅い部分にある、無意識の層。
意識と隣接しているから、個人的な色合いが濃い。

個人が体験したことで、意識の枠組みに収まらないものが、ここにあると仮定できる。
平たく言えば、何らかの要因で、意識から締め出されたり、はみ出たものが、この層に存在する。

「影」とか…)



■普遍的無意識(集合的無意識)

意識から離れた、より深いところにある無意識の層。
意識と離れているから、その色合いはより普遍的になる。

人類という枠組みだと、人類に共通する普遍的なものが、この層にあると思われる。

(個人的には、機制(メカニズム)的なものは、この層にあると思う。但し、個々の、機制から発生したものは、むしろ個人的無意識にあるんでしょう。それは個人的な体験だから。ここにあるのは、各種のメカニズムとか、本能とか、すべての人間に共通する土台になるもの)

個人的な体験を超えて持つものが、ここにあると仮定できる。





例えば、「母なるもの」を考えた場合、実際の母親に触れた個人的な経験の内、
@おおかた意識できているものもあり、
A意識からはみ出した個人的な経験もあり、
Bそういう個人的な経験を超えて、人類が奥底に持っている、共通のイメージもあります。

それらがそれぞれ、@意識の領域、A個人的無意識の領域、B普遍的無意識の領域、にあるというわけです。





因みに、心理学のスタンスでいえば、無意識の層にあるものに影響されて起こる(意識の側の)現象に重きが置かれ、それを手がかりにして、無意識の層にあるものを意識的に捉えようとしたり、定義付けしようとしたりするのだと思います。

逆に、宗教的なスタンスだと、むしろ、無意識の層に自ら降りていって、無意識を十二分に体験することが、その目的になっているような気がします。
(体験することで、結果、意識化することになったりする)

それぞれ、同じようなものを問題としているのだけれど、しようとしていることは、違うように思う。(アプローチとか、立ち位置、目指す到達点とかは、違うんじゃなかろうか)

同じようなものを解明しようとしているのだけども、心理学は、無意識の層にある「そのもの」(例えば、元型)よりは、「そのもの」によって、意識の層に現れる何か、を問題にしており、宗教の方は、純粋に、「そのもの」を探求しているような印象があります。

ある意味、心理学は人間(=意識)の側に立つが、宗教はむしろ、自然とか、宇宙(=無意識)の側に立っているような気がする。(身を置く、といってもいい)

もっとも、どちらの立場にしても、「ゆるさ」や「あやふやさ」は持つだろうし、また、それでいいような気もします。

(逸脱さえしなければ…)





もう一度、意識と無意識の話に戻ると、意識(あるいは、意識する行為)というものは、暗がりでサーチライトを照らすようなもので、その限定された、照らされた部分を、我々は意識することになります。
それは、目に見える範囲ということでもあり、(個人的に)体験したということでもあり、
集中して見たことでもあり、多くのものから絞ったものでもあるでしょう。

逆に、そこからはみ出す物が無意識であり、それは、目に見える範囲の埒外にあり、個人の体験を超えたものであり、拡散した広い範囲であり、多くのものが混沌として存在する世界なんでしょう。

で、その両方によって生かされているのが、人間なんでしょうね。



(*1
例えば、我々は地球全体を意識できない。しかし、地球の部分である何かは意識できる。また、地球だって、宇宙の一部だったりする。

これは人間総体に対しても同じで、我々は自分にしろ相手にしろ、総体としての人間すべてを意識することはできないが、その部分を意識することはできる。

また、これは人間の内界にもいえ、我々の心というものは、意識できる範囲以上に広く、多様である。

だから、不可解で、怖ろしい部分も有する。
(そして、それだけに、可能性に対して開かれている)



日記より:「無意識について思うこと」


やさしいユング心理学:第4章 無意識の領域







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【ゲシュタルト療法】 



『ゲシュタルト療法』


パールズの提唱した「その人の人格の持続的な成長・成熟」を目的とした療法のひとつ。

ゲシュタルトという言葉は、ドイツ語で「全体のかたち」「全体性」という意味をさします。
ゲシュタルト療法は「今、ここ」という体験を重要視し、感情や身体感覚などの体験を通して、自己や本心と向かい合い、そういうものに気づき、人格や統合性・全体性の回復を図るものです。

ゲシュタルト療法の九原則:

第一法則:『今に生きる』
第二法則:『ここに生きる』
第三法則:『想像をやめて、現実的に物事をとらえる』
第四法則:『考えることより、感じることを選ぶ』
第五法則:『判断するよりも、表現する』
第六法則:『不快な感情も受け入れる』
第七法則:『権威者を作らない』
第八法則:『自分自身に責任を持つ』
第九法則:『自分自身であろうとする』

関連記事:「ゲシュタルト療法的な生き方」





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