ユング心理学、カウンセリングと日記


     

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「キレる大人のメカニズム」


◆その一◆

どうも、「キレる」ということと、「受け容れられない」ということは、密接に関係しているようですね。



大雑把に言うと、人は何か―― だいたい、自分でもそれが悪いと気づいているようなもの―― が受け容れられない場合、キレるようです。

それで自分に向いたベクトルを、どっかに吹っ飛ばそうとするのかもしれません。

それが外に向く場合、相手にキレるし、
内に向く場合―― これが事実を受け容れることに使われるのかというと、そうではなくて―― すべてを止(や)めちゃったり、自分に何かをぶつけたり、そういうことに使われてしまうのかもしれません。

ともかく、受け容れられない状態なので、何とか別のカタチで、そのエネルギーを使おうとしちゃうのかもしれませんね。

で、その使い方が不細工だから、破壊的になってしまう。

この、「使い方が不細工だから」というのは、実はなかなか意味深い言葉です。
文字通り、力の使い道が不細工・不器用なんですね。
例えば、自分でも悪いと思っているなら止めたらよさそうなもんですが、それができません。
わざわざ別のことに力を使ってしまいます。

とはいえ、(事実なり何なりを)受けたら受けたで―― 受け取れない状態なんだから―― 自分が破壊されちゃう可能性があるわけで、簡単に、受け容れるのがいいとも言えません。

こういうメカニズムは、人間を守るものでもあります。
そういう意味では、必要なものです。
防衛機制と同じですね。



また、ここに「繰り返し」のモチーフがあって、目の前の事実を認められないから修正がないわけだし、修正がないから、まあ、繰り返しますわな。

また、無意識的には自分でも悪いと思っていたりするんですが、そういう事実は認めたくないわけだし、
認めたくないということは、自分が正しいと証明したいわけで、
それ(例えば、トラブルの素になっているようなこと)を繰り返し、それが大丈夫だと証明したいわけで、
しかし、それでトラブルが発生しているわけだから、当たり前に大丈夫にはならないわけで、
―― という風に、ここにトラブルの原因を繰り返すという悪循環が生じたりします。

(事はもつれにもつれて、えらい事になったりします)


何かを行なう、

自分でもそれは悪いことだと、うすうす感じる、
半無意識的には感じている、

だから、そういう意識が活性化されるものに出会うと、自分が非難されているような気分になる、
(時には、実際に非難される)

うすうす悪いとは感じているものの、それは受け容れられないから、それは拒否する、
(半無意識的であったり、無意識的であったりですが、ともかく、拒否する)

自分のしていることは大丈夫なのだと言い聞かすためにも、繰り返す、


で、もって、自分でもうすうす気づいているもんだから、
心の奥で罪悪感は募るし、それは一向に消化されないしで、
とうとうキレるというカタチで爆発してしまうのかもしれません。

まあ、その爆発の仕方は人によっていろいろで、自分の影を活性化させるような相手にキレる人もいれば、身近な弱者にキレる人もいるでしょうし、社会の何かに投影してキレる人もいるでしょう。
そういうのを総合した、「手ごろな相手」にキレる場合もあるでしょうか。

あるいは、自分を取り巻くもの―― といっても、身近な人にではなく、むしろ自分自身―― にキレて、活動そのものを放棄してしまう場合もあるかもしれません。

この辺は、程度問題はあるにしても、誰でもやるようなことだと思います。

(そう、誰でもやるんです。他人事じゃないわけですね。もちろん私も経験してます―― というのは、実際にやってます)



◆その二◆

ということで、キレるということの裏には、何かしら自分自身で受け切れないものがあるということなんですが、
単純な例だと、河川敷でゴルフしているおじさんが、それで子供を怪我させてしまうかもしれないとか、それでみんな困っているとか、そういうことを受け切れないんで、つまんない言い訳したり、記者にキレたりします。

あるいは、もっともっと単純にいうと、自分が叱られていること、自分が悪さをしたこと、それが受け切れないんで、キレるんでしょうね。

まあ、これも、子供がやる分には、かわい気があるんですが、大の大人がやっちゃあねぇ。
とてもじゃないですが、「キレる子供」の心配なんてできません。
(というか、どっちが子供か分かったもんじゃありません)



でも、まあ、受け容れるっていうことは、大変なことで、なかなか出来んもんです。
しかし同時に、いつかはやらねばならないことだとも思います。

猶予期間はあってもいい、
すぐに出来なくてもいい、

でも、いつかはやんなきゃなんないんでしょう。
特に、我々、大人は。



―― というようなことを、例の「河川敷ゴルファー」の人たちや、バスや電車に割り込んだはいいが、人の視線に耐えられず爆発するような人を見て思ったわけですが、でも、こういう人を笑えない(あるいは、怒れない)部分は、我々にもあるんではないでしょうか。

なにせ、程度の差こそあれ、こういう部分は誰しも持つものだからです。
(ですから、一方的に責められない部分があると思います)

でも、こういうものは、上述したように、いつかは卒業すべきものでもあります。

どういう映り方をするかは分からないにしても、大人は子供の鏡です。
(映り方→そのまま? 反発?)

子供を通して(映して)、自分自身の姿を見ているのだという現実を、我々は知るべきかもしれません。

ということは、「まず、自分がやる」ということですね。
実は、それが一番、手っ取り早い。

と、めんどぐさがりで、楽したい性分の私は思います。

(確かに、一番難しい道ですが、一番の近道でもあるでしょう)
―― というかですね、自分がやりもしないことを、子供にさせようなんて、メチャクチャなんですよ)



こういうメカニズムは、人間の特性ですから、逃げ切れないわけで、ということは、それは必ずと言っていいほど、やってしまうわけで、はじめからの拒否は出来ないものです。

誰もが経験してしまうようなことです。
なんせ、それは人間が生まれながらに持つ、ひとつのメカニズムですからね。

だから、「しない」「拒否する」というよりは、「卒業」すべきものなんでしょう。
乗り越えるべき事象だと思います。

(で、手本となるべき大人がいないと、これがまた難しいんですな)



◆その三◆

キレるというメカニズムは、ご近所トラブルなんかにも潜んでいるように思います。
だいたい、ご近所トラブルの始まりの多くは、「注意された」ということからでしょうか。


注意された、
あるいは、そう感じた、

それは受け容れられない、
うすうす悪いとは感じているのだけれど、どうにも受け容れられない、

注意された私は可哀相、

注意した相手はひどい人、

私は悪くない、
(相手が悪い)

悪くないことを証明するためにも、トラブルの元になった行為を繰り返す、
私は悪くないから繰り返す、
私は可哀相、
私は悪くない、
だから繰り返す、


これでは何も変わらないですね。
むしろ悪くなる。



最近よく話題になるご近所トラブル、まあ、昔からあったことではありますが、最近のものとは、様相を異にしているようにも思います。

では、何が昔と今で違うのでしょうか?


昔は家の中に、怒る人とか、諌める(いさめる)人がいたんですね。

家の中にそういう役割の人がいたから、「自分は悪くない」というような人も、諌められたり、諭されるので、簡単にキレるわけには、いかなかったように思います。
(まあ、キレるにしろ、爆発したあとで、諭されたわけです)

でも、今はそういう人がいない。
存在としてはいても、そういう役割は果たしていない。

むしろ、「私は悪くない」という人に同情し、そうね、そうねと、同調する。
だから、「私は悪くない」のままだし、トラブルの元も断たれることがない。
(どちらかというと、拍車をかけるわけです)

で、同調・同情する人は自分の身は痛まないですが、それで割りを喰う人が出てくる。

割りを喰う人は今のご時世、だいたい我慢するんですが、トラブルの元が絶えないし、かえってエスカレートしてくるもんだから、怒るしかなくなってくる。

注意しようが、怒ろうが、相手の根本には、「私は悪くない」という深い根があるから、上記の無限ループが、また始まってしまう。

まさに、無限地獄の様相。
そりゃ、事件にもなりますわな。


【注意】

もちろん、本当に「私は悪くない」という場合もあるので、全体の布置を見る必要があります。
フェアにね。

で、フェアというのは、その半分は厳しいです。
(相手を見ると同時に、自分を見ることにもなりますからね)

こういうことで何が怖いかというと、事実関係が無視されることです。
何かしらを避けるために、事実が蔑ろにされてしまうんですね。

ですから、事実関係を把握することが―― 特に周囲の人にとって―― 大事になってきます。

だいたい、事実関係を無視して、相手を責めることなんてあってはならないんです。

仮に誰かがそれをしたとしても、身近な周囲は、それを止めなきゃならないでしょう。



◆その五◆

ご近所トラブルなんかの場合、注意された方は、「なんで私が注意されなきゃならないの」と嘆きますが、注意する方にすれば、「なんで私が注意しなくちゃいけないの」ってなもんです。

まあ、その通りですね。

本来なら、相手の家の中で収めて欲しいところでしょう。



その昔、頑固親父たちが幅を利かせていた時代、それはそれで煙たかったんですが、それで事が収まっていた面があろうかと思います。

頑固親父がいない場合は、祖父祖母や親戚の年長者が、その役割を果たしていました。

でも、今や、そんな面倒くさいことをやろうなんて奇特な人はいなくなってしまいました。

怒るという割の合わない汚れ仕事をするよりは、同情するという方を選びがちです。
(あるいは、何もしない。関わらない)

これなら悪役になることもないし、家の中で嫌な雰囲気を味わわなくて済みますからね。
まあ、見えないところで迷惑している人がいるんですが。



まあ、人間、怒ることも、怒られることも、そんなことは無いに越したことはないんですが(ホントにね)、誰かがやらなきゃ、その役割の人がやらなきゃ、他の誰かが割りを喰うんですね。
(理屈ぬきに、そういう風になっています)

怒られる人も、怒る人も、絶対、我が身は痛むし、
今の世の中、そういう経験もなかなかないし、
したらしたで、し慣れないもんだから、不器用になったり、不細工になったりするんですが、
それでも、まあ、誰かがしなきゃ、しゃあないですね。

(大人がやらない場合、子供がやることになるという、悲しい現実もあるし…)
(その役割の人がやらない場合、他の人がやらなきゃならなくなるという、これまたしんどい話もあるし…)
(その内部の人がやらないと、外部の人がやることになって、更なるトラブルを呼ぶという現実もあるし…)
(ホント、ややこしいです)



悲しいけど、人間、ある程度、痛まないことには、成長せんようです。

痛みがないことには分からないし、
分かるということには、痛みが伴ないます。

だから、泣くべき時に泣くのは、悪いことではないです。
(泣くべき時に泣かないと、あとで泣くことになります)
(泣くべき人が泣かないと、他の誰かが泣くことになります)

痛むべき時に痛むのは、悪いことではないです。
(痛むべき時に痛まないと、あとで痛むことになります)
(痛むべき人が痛まないと、他の誰かが痛むことになります)

悲しいけど、現実です。

だから、泣く時に付き合う人、
痛む時に付き合う人、
そういう人が必要になります。



それに、誰かが悪役を買って叱るなり諌めるなりすれば、他の人は、「慰める」ことができるんです。
(叱らないままに慰めるだけだと、変わりませんけどね)

ちゃんと叱る役割の人がいれば、それで秩序が守られ、他の人は慰め役になれるんです。



泣くのが悪いということはないです。
痛むのが悪いということはないです。

泣き続けないために、
痛み続けないために、
そうするんです。

(いつも泣き続けるのも、いつも痛み続けるのも、御免なので、人生のどっかで、しっかり泣き、しっかり痛むんです。もう泣かないために、もう痛まないために)



で、それをすべきは誰なんだ? (その役割を果たすべきは誰なんだ?)
それと付き合うのは誰なんだ?

―― そういう事が問われる時代なのかもしれませんね。


【注意】

怒る方、叱る方に、正当性が求められるのは、当たり前です。

相手が悪くないのに怒れないわけだし、自分があまりにも後ろめたい場合にも、怒れないでしょうね。
(ああ、後ろめたいんで―― 怒るんじゃなくて―― キレる人はいそうですが)

全体の布置を見ることと、正当性は要ります。
当たり前に。


【追記1】

私が小さかった頃は、知らないおじさんだって子供たちを叱ってました。
でも今の時代、親が逆ギレしますからね。

子供のため?

いえいえ、親が事実を受け容れられないからです―― 私はそう思います。
子供を通して、自分が叱られている気分になるんでしょう。
(実際、子供を通して、親が叱られ、反省すべきだとも思いますが)


【追記2】

だからって、頑固親父の時代に「先祖がえり」するのがいいとは、まったく思いませんよ。

頑固親父は頑固親父で、やっぱり未熟で子供じみた面がありましたからね。
(未成熟な人間に、メチャクチャな理由で叱られるほど、馬鹿らしいことはないですから)

要は、大人はみんな成熟せにゃならんという事です。
(他人事ではなく、一人ひとりが、自分で、です)


元の記事:『マイカテゴリ:キレるということ』(日記より)





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