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「五感と暴力/五感と心地よさ」


「五感と暴力」

五感に関するもの、
それはちょうどいい感じだと、心地いいんですが、
逆に、それが度を越すと、暴力的になってしまいます。



五感―― 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、

度を越した光、明るさ、
度を越した音、

度を越した刺激、

度を越した味(辛さ、甘さ、酸っぱさ、etc …)、
度を越したニオイ(臭い・匂い)、

全部、度を越すと、暴力的になります。
その気がなくても、攻撃的に感じてしまいますよね。
ある意味、五感が攻撃されている、ともいえるんでしょう。



但し、この「度」というのが曲者です。

ある人の普通は、別の人にとっては普通ではないので、
ある人の普通が、別の人にとって、暴力的になることも、しばしば。
(また、これがトラブルの元)

誰しも自分なりの普通があって、しかし、他の誰かにとっては普通ではなく、
―― むしろ、度を越していて――
だから、あまりに譲らないと、暴力的・攻撃的になってしまいます。

一方が普通だと思っている行為が、もう一方には度を越した行為であり、
それにより、慢性的に苦しんでいたり、心休まらなかったり、
そういうこともあるでしょう。



また、明らかに非常識なことを普通としている場合、余計に暴力的になるでしょうね。
普通ということは、たいてい「いつも」だから、いつも、普通に、人に苦痛を与える。
(また、「普通」とか「常識」とか、そういうものが随分と失われた感があるし…)

まあ、普通とか常識とか、こういうものにも色々な考え方があって、
何でも普通とか常識とかに当てはめようとすると、それはそれで無理が出てくるし、
(一人ひとりの個は、違った存在ですからね)
しかし、普通とか常識とかが、あまりに蔑ろにされると、無秩序になりますわな。

現代の問題としては、これらが悪いほうに働いているように思います。

というのは、一方では、何でも枠にはめたがり、(枠からはみ出ることが、如何にも罪であるかのように扱い)
もう一方では、社会常識とか、社会規範とかが、蔑ろにされてしまっている。

前者においては、寛容さが無く、
後者においては、厳しさがない。

逆にいえば、
つまらない部分で厳しくて、
つまらない部分で寛容です。

バランスが悪いですよね。



まあ、自分が気に入らないなら――あまりに暴力的で堪らないなら――
そこを避けたりすればいいんですが、そうもいかない場合も多々ありますよね。

それは難儀です。
苦しい。

いつも傍にあって、迷惑しているのに譲らない、
(しかも、避けるわけにもいかなかったりする)
そういう場合もあるでしょう。

これはもう、堪らない。



まあ、誰しも自分なりの「普通」や「常識」があるんですが、
それが他の誰かにとっては暴力的であることもあるでしょう。

それを踏まえないと危ないですよね。

で、何だか救いのない話になりましたが、解決法がないわけでもないと思います。

それは、「ちょっと気を使う」こと。

何かしらの態度や行動を、する・しない、ではなく。
ちょっと気を使う。

度を越さないように、気を使う。

度を越した明るさにならないように、
度を越した音にならないように、
度を越した刺激にならないように、
度を越した味にならないように、
度を越したニオイにならないように、

ちょっと、気を使う。


これで随分、丸く収まるように思います。

(但し、その「度」は人によって随分違う場合もあるので、その差によっては、難しい場合もあるでしょう)



まあ、「ちょっと気を使う」は「ちょっと」なので、
一見、簡単なようですが、
下記のような場合は、難しいんですよね。

『キレる大人のメカニズム』

簡単なんだけど、難しい。
当たり前ですが、意識しないと分からない。
そして、意識するのは、つらい。

…何にしても、認めるのはつらいもんです。

でも、意識しないことには改善されない。

そして、どこかで勝負しなければならなくなるんでしょう。


元の記事:「五感と暴力」



◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



「五感と心地好さ」

上で、「五感に関するものは、度が過ぎると、暴力的になる」というようなことを書きました。

でも、これも、ちょうどいい感じだと、心地いいんですよね。
当たり前ですけど。



但し、この「ちょうどいい」も個人差があって、人それぞれです。

ある人の「ちょうどいい」は、別の人にとっては全然よくなかったり、
場合によっては、度外れなこともしばしば。

でも、そんなことはさておき、
自分にとって「ちょうどいい」ものは、心地いいですよね。
当たり前に。

(当たり前に、当たり前に―― と繰り返しますが、その当たり前を見失いがちなのも、人間です。ああ、ややこしい…)



その、自分にとって「ちょうどいい」が、世間一般からすれば度を過ぎている場合もあって、

まぶしいくらいがいい、
うるさいぐらいがいい、

痛いぐらいがいい(マッサージとかね)、

辛いぐらいがいい、甘いぐらいがいい、酸っぱいぐらいがいい、
臭いぐらいがいい? → ああ、きつめのニオイがいい、

そういう場合もあるでしょう。

で、こういうものは、当人が楽しむ分には、何ら問題がないと思います。

ただ、他人の領域を侵すなら、やっぱり問題で、この辺はちゃんと考えないといけないんでしょうね。
(自分の「いい」が相手にとって「いい」とは限らず、自分の「普通」が相手にとって「普通」であるとは限りません)

(あまりに「普通」や「常識」がないのも困るし、かといって、何でも「普通」に押し込まれるのも困るし―― ややこしいですね)


自分で楽しむのは、基本的に、それでよし。
他人に侵害されるものでもない。

でも、他人の領域を侵害しないと自分は楽しめないというのは、ちょっと乱暴で、子供じみている。
この辺は考えないといけないようです。



大雑把な言い方をすれば、

私的空間では、どのような楽しみ方をするのも、本人の自由で、
しかし、公的な空間、人と共有するような空間では、それなりの気を使わないといけないんでしょう。

これに反して、公的空間を自分の部屋みたいに使うと、とんでもないことになりそうですね。
(子供じみたトラブルを生みそうです)

また、五感に関するものは私的空間と公的空間を行き来したりするので、ここにも気を使う必要がありそうです。



話を戻すと、人間、趣味嗜好が違うのは当たり前なんで、
理想を言えば、その違いを楽しめるくらいが、いいんでしょうね。

「それは私と違う」と言うんですが、それは相手のそれを否定するんではなくて、
その違いを面白がるとか―― 面白がるといっても、「興味深い」という意味での、面白がるですが――
その違いについて、ああだこうだ言って、盛り上がるとか、
そういう風に楽しめるといいですね。

(まあ、公私の区別はつけながら…)

で、自分は大いに楽しみながら、
最低限、人の迷惑にならないように、気は使わないといけないんでしょう。



まあ、何にせよ、
せっかくの人生、楽しまないとね。

それなりの気を使いながら。


【追記】

で、こういうことを踏まえると、
自分の「ちょうどいい」と、相手の「ちょうどいい」、
それが重なると、うれしいですよね。

まるで、抱き合う感じ。

喜び、思わず抱き合う、あの感じ。


元の記事:「五感と心地好さ」







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