【神に対する態度】
2004/01/30
☆神に対する態度☆ 「図説ユング 林道義 河出書房」より
ユングは12歳の時、神についてこう考えている。
「世界は美しく、教会も美しい。そして神様がこれらすべてをお造りになり、青空のはるかかなたで黄金の玉座に腰掛けてらっしゃる」
しかし、こう考えるうち彼は以前見た巨大な男性性器の夢を思い出し、なにか「罪の中で最も恐ろしい罪」を犯すように思えた。
彼は三日三晩苦しんだのち罪について考えるようになる。そして最初の原罪を犯したアダムとイブに行き着いた。
ユングは神は自分の思うとおりに二人を造ったはずだと考えた。神は二人を罪を犯さないように造ることもできたはずである。しかし罪を犯すように造ったということは、二人が罪を犯すことが神の意思だったのだと考えた。つまり私(ユング)が罪を犯すなら、それは神の意思なのだ、と。
そう考えると彼の気持ちは楽になった。しかし、では神が彼に何を望んでいるかは分からなかった。
【私的な考え】
考えるに、人間は罪を犯すからこそ、つまりは不完全だからこそ、より洗練された究極の存在になる可能性を持つのだと思う。神は(悪魔もだが)完全な存在であるが故に成長をしない。神は善しか持たず、悪魔は悪しか持たない。完璧ゆえに(それは一面的に、なのだが・・)成長がない、進化がない。
人間は善と悪の両面を持つが故に苦しむ。しかしその御陰で成長するのである。より完全な状態を目指して進化する可能性を持つのである。
ジレンマは分離を生み、分離は統合を生み出す。統合された状態は、以前より進化した状態である。
完全な安定には進化がない。
人においても、社会においても、安定を壊すことで、次の時代へのシフトがなされる。また、このシステムこそが、世界を破滅から救うのである。
一面的な安定は、破滅を招くのだ。
良いも悪いも包含するからこそ、すべてを補い、全体性を現す「円」となる事ができる。
【追記】
人間誰でも、周囲の価値観に無理やり合わせようとしても、どこかで無理が出てくるものです。
ユング少年が、無理やり当時の西洋の絶対神的価値観に合わせようとしても、内なるユング少年はそれを赦さなかったのでしょう(少なくとも、納得しなかったのでしょう)。
そして、ユング少年の自我が、思い込もう思い込もうとすればするほど、内なるユング少年(無意識的要素)は、それに異を唱えようとしたのかもしれません。
これは何も彼に限らず、誰しも身近な権威者や、世間で権威あるとされている人(医者や教師、宗教家など)を、現実やその人の技量を無視して、無理やり高尚だと思い込もうとした場合、無意識はそれに異を唱えようとする傾向があるようです。
それが夢に現れて、権威者を貶める夢を見る場合もあるし、無意識の作用が強い場合は、意識に影響を与え、権威者を脅かす(おびやかす)ような想いが浮かぶ場合もあるようです。
ユングは散々考えたあげく、最後には「神は私に勇気を示すことを望んでおられるのだ」と結論した。彼は勇気を奮い起こして、考えの浮かぶままに任せた。浮かんできた考えはこうであった。
「目の前に美しい聖堂がある。その上に青い空がある。神はこの世のはるか高いところに、黄金の玉座に座っている。玉座の下から、途方もなく多くの糞便が新しい青い教会の屋根の上に落ちてきて、それを粉砕し、教会の壁をバラバラにした」
【私的な夢解釈】
糞便:一般には汚らしいもの、他人には見せないもの、ただし人間生活には不可欠で切り離せないもの、人間に必要なもの、(排便には快感も伴う)
ユングの見たものは、天におられる神聖なる神が、糞便なる一般的には汚らしく忌むべき存在で一方人間には必要不可欠なものを、天から遣わし、更に教会(その時代の正しいもの、善の面の象徴、時代の一面性)を粉々に打ち破るのである。
これはその時代の価値観に支配されようとしていた少年ユングの価値観を破壊するものだと思われる。つまりこれによりユングは神の支配から脱したのである。また少年ユングの神に対する盲目的な信仰態度を、このような神を引き落としたと感じられるほどの強烈な夢を見ることで、諌めた(いさめた)とも言える。
(誤解されるといけないので補足するが、「神の支配を脱する」とは、神に逆らうことではなくて、神を盲目的には信じない、ということである。何が善であるかは、その場合場合で当人が判断すべきものなのである。盲目的に何かを信ずることが如何に危険であるかは、我々人類の歴史が教えてくれる。第二次大戦中のドイツではヒトラーが神にも等しかったし、現代においてもエセ宗教に支配される人がいるのである)
なお補足であるが青い教会というのは、ユング家の紋章にある淡青色の十字架を連想させる。ユングの父親はキリスト教の牧師であり母も信者であった。
このような補償作用は、通常生活でも見られる。
私の知る、ある人は、医師や先生などに接する時、(自我が)思ってもいないのに、ヤブ医者だの、エセ教師だのと、罵り(ののしり)たい衝動に駆られた時期があったそうである。
この人との話し合いの中で、のちに分かったことだが、この人は、医師や先生というものを無理やり高尚に思おうとする自我の作用が強すぎて、その補償作用として、無意識はその対象を引き落とそうとしたのである。
無意識は、時に、自我が無理やり決め付けたり、思い込もうとするものを、何がなんでも引き落とそうとする傾向がある。
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