【城太郎日記】ユング心理学、カウンセリング

ユング心理学へのごく私的な考察

                (2004年5月27日加筆・修正)
                (2005年4月14日追記:橙字)





注) これは河出書房発行の林道義「図説ユング」を読んでのごく私的な考察です。
   したがって、これがユング心理学の一般的な考えという訳ではありません。
   そんなこと言ったら笑われたり、袋叩きに会う可能性があるので注意してください。
  (主に、赤字が、私的な考察です)






【神に対する態度】

2004/01/30

☆神に対する態度☆
 「図説ユング 林道義 河出書房」より



ユングは12歳の時、神についてこう考えている。
「世界は美しく、教会も美しい。そして神様がこれらすべてをお造りになり、青空のはるかかなたで黄金の玉座に腰掛けてらっしゃる」
しかし、こう考えるうち彼は以前見た巨大な男性性器の夢を思い出し、なにか「罪の中で最も恐ろしい罪」を犯すように思えた。
彼は三日三晩苦しんだのち罪について考えるようになる。そして最初の原罪を犯したアダムとイブに行き着いた。
ユングは神は自分の思うとおりに二人を造ったはずだと考えた。神は二人を罪を犯さないように造ることもできたはずである。しかし罪を犯すように造ったということは、二人が罪を犯すことが神の意思だったのだと考えた。つまり私(ユング)が罪を犯すなら、それは神の意思なのだ、と。
そう考えると彼の気持ちは楽になった。しかし、では神が彼に何を望んでいるかは分からなかった。


【私的な考え】
考えるに、人間は罪を犯すからこそ、つまりは不完全だからこそ、より洗練された究極の存在になる可能性を持つのだと思う。神は(悪魔もだが)完全な存在であるが故に成長をしない。神は善しか持たず、悪魔は悪しか持たない。完璧ゆえに(それは一面的に、なのだが・・)成長がない、進化がない。
人間は善と悪の両面を持つが故に苦しむ。しかしその御陰で成長するのである。より完全な状態を目指して進化する可能性を持つのである。
ジレンマは分離を生み、分離は統合を生み出す。統合された状態は、以前より進化した状態である。
完全な安定には進化がない。
人においても、社会においても、安定を壊すことで、次の時代へのシフトがなされる。また、このシステムこそが、世界を破滅から救うのである。
一面的な安定は、破滅を招くのだ。


良いも悪いも包含するからこそ、すべてを補い、全体性を現す「円」となる事ができる。


【追記】
人間誰でも、周囲の価値観に無理やり合わせようとしても、どこかで無理が出てくるものです。
ユング少年が、無理やり当時の西洋の絶対神的価値観に合わせようとしても、内なるユング少年はそれを赦さなかったのでしょう(少なくとも、納得しなかったのでしょう)。
そして、ユング少年の自我が、思い込もう思い込もうとすればするほど、内なるユング少年(無意識的要素)は、それに異を唱えようとしたのかもしれません。

これは何も彼に限らず、誰しも身近な権威者や、世間で権威あるとされている人(医者や教師、宗教家など)を、現実やその人の技量を無視して、無理やり高尚だと思い込もうとした場合、無意識はそれに異を唱えようとする傾向があるようです。
それが夢に現れて、権威者を貶める夢を見る場合もあるし、無意識の作用が強い場合は、意識に影響を与え、権威者を脅かす(おびやかす)ような想いが浮かぶ場合もあるようです。



ユングは散々考えたあげく、最後には「神は私に勇気を示すことを望んでおられるのだ」と結論した。彼は勇気を奮い起こして、考えの浮かぶままに任せた。浮かんできた考えはこうであった。
「目の前に美しい聖堂がある。その上に青い空がある。神はこの世のはるか高いところに、黄金の玉座に座っている。玉座の下から、途方もなく多くの糞便が新しい青い教会の屋根の上に落ちてきて、それを粉砕し、教会の壁をバラバラにした」


【私的な夢解釈】
糞便:一般には汚らしいもの、他人には見せないもの、ただし人間生活には不可欠で切り離せないもの、人間に必要なもの、(排便には快感も伴う)

ユングの見たものは、天におられる神聖なる神が、糞便なる一般的には汚らしく忌むべき存在で一方人間には必要不可欠なものを、天から遣わし、更に教会(その時代の正しいもの、善の面の象徴、時代の一面性)を粉々に打ち破るのである。
これはその時代の価値観に支配されようとしていた少年ユングの価値観を破壊するものだと思われる。つまりこれによりユングは神の支配から脱したのである。また少年ユングの神に対する盲目的な信仰態度を、このような神を引き落としたと感じられるほどの強烈な夢を見ることで、諌めた(いさめた)とも言える。
(誤解されるといけないので補足するが、「神の支配を脱する」とは、神に逆らうことではなくて、神を盲目的には信じない、ということである。何が善であるかは、その場合場合で当人が判断すべきものなのである。盲目的に何かを信ずることが如何に危険であるかは、我々人類の歴史が教えてくれる。第二次大戦中のドイツではヒトラーが神にも等しかったし、現代においてもエセ宗教に支配される人がいるのである)
なお補足であるが青い教会というのは、ユング家の紋章にある淡青色の十字架を連想させる。ユングの父親はキリスト教の牧師であり母も信者であった。

このような補償作用は、
通常生活でも見られる。
私の知る、ある人は、医師や先生などに接する時、(自我が)思ってもいないのに、ヤブ医者だの、エセ教師だのと、罵り(ののしり)たい衝動に駆られた時期があったそうである。
この人との話し合いの中で、のちに分かったことだが、この人は、医師や先生というものを無理やり高尚に思おうとする自我の作用が強すぎて、その補償作用として、無意識はその対象を引き落とそうとしたのである。
無意識は、時に、自我が無理やり決め付けたり、思い込もうとするものを、何がなんでも引き落とそうとする傾向がある。








【人生と無意識】

2004/01/31

☆人生と無意識☆
 
自伝より 『ユングの生涯』 河合隼雄著 参照



「私の一生は無意識の自己実現の物語である。無意識の中にあるものはすべて、外界へ向かって現れることを欲しており、人格もまた、その無意識的状況から発達し、自らを全体として体験することを望んでいる。」


【私見】
この言葉から個人的な考察をすると、人の生涯は無意識の深遠にして中心たる魂からの要求に耳を傾け、それを実現するためのものであると考える。魂の要求とはすなわち、個体である自分自身が宇宙において最良最善なる究極の存在に進化することと考える。もっと現実世界に近い表現をするなら、「自分の理想像」「自分のなりたい姿」になる事である。これは世間一般から押し付けられた規範や価値観、像から来るものではなく、自身の内面から生まれるものである。
但し、世間一般の規範や像がないがしろにされて良い訳ではなく、むしろ自己実現の道は、世間一般の規範や像を備えてから踏み出すものである。世間一般の規範や像を考慮できないような理想像は、往々にして周りに害悪に働く事が多い。理想像は自らの責任を果たしながら追い求めるもので、身勝手な理想像追求などは「幼稚」で「害悪」である事を知る必要がある。
故に、自己実現への歩みは人生の晩年に成される事が多い。
(但し、身内や信頼出来る者たちへの対応は違ってくる。相互の関係性において、迷惑がゆるされる場合も多々ある。世間と身内は分けて考えるべきである。
他人行儀な身内もどうかと思うし、他人に身内と同じことを要求するのも、どうかと思う
(また、「自分の理想のためには他人がどうなろうとも関係ない」、もっと極端に言うと「理想のためには他人も殺す」というような考えは、テロリストの思想である事を知らねばならない。そして、この思考が非常に「幼稚で未成熟」、「浅薄」である事も認識する必要がある)

「無意識の中にあるものはすべて、外界へ向かって現れることを欲しており」とは、無意識、中でも集合的無意識と呼ばれる人類(あるいは宇宙全体)の持つ共有財産にして歴史であるものが、その中心から進化しようと拡大し、究極の存在を目指して発現してゆくのである。これは宇宙の成り立ち、法則でもあり、人間の個人に置き換えるならば、魂の中心からひろがる進化の欲求、自己実現への欲求が、人格に現れ、そこから行動、発言につながり、はては人にまで影響するのである。
すなわち個人の人格、行動、発言も、宇宙の進化にとって重要な要素の一つなのであると、私は考える。
(この宇宙に無駄なものなど一つもない。とはいえ、その影響力に差が生じるのは紛れもない事実である。例:太陽と私を比べれば、皆さんに与える影響は大いに差がある。・・・当たり前だが)

近頃は「人ひとりの命は地球より思い」という言葉を取り違えて、狂信的に叫ぶ人たちが多いようである。
この人たちは「平等の中にある、影響力の差」が考慮できないらしい。
例えば同じ人間であっても、私の命と、一国の大統領の命とでは、その影響力に差があるのは歴然である。
(勿論、だからといって人の命が軽んじられる訳ではないのもまた当然である)
このような人たちは正常な判断・認識ができないらしい。

正常な判断力・認識力に欠ける人が徒党を組むと悲劇が起こる。
独裁者を祭り上げたり、虐殺を行ったり、聖人を殺したりするのである。
また、その背後に、それを煽る連中が存在するのも歴史的事実である。
ある時は、ナチの支持者がこの役割を果たした。また、キリスト処刑においてはパリサイ人が暗躍した。
人類はこれらの歴史から学ばねばならないだろう。








【アニマ体験】

☆アニマ体験☆ 白字は「図説ユング 林道義 河出書房」より



ユングは男性の心の中の女性像と、女性の心の中の男性像とが、特別に重要な意味を持っていることに気づいて、それぞれをアニマ、アニムスと名づけた。
アニマは男性の意識の中で軽蔑されたり、低く見られている性質と同一化している。それは男性が女性的なものを意識の立場では低く見ていることと対応している。例えば感情や本能、官能といったものである。


【私見】
ユングが「女性的なものを意識の立場では低く見ている」と言ったのは、男性が女性そのものを低く見ているというのではなくて、むしろ女性から派生する男性自身の邪な感情や本能、官能といったものに対しての、意識的な(あるいは社会道徳的な)見解であると思う。
(更に個人的な見解を述べさせていただくなら、男性、女性共に妥当なる権利は要求するのは当たり前のことで、守らなければならないことであると思う。しかしながら、男性、女性それぞれが持つ個別な優位性(どちらも、それぞれが優位であると思う)、特徴をないがしろにして一緒くたに考えるのは、男性、女性共々に対する冒涜であると思う。どちらもが素晴らしいに決まっているのだ)



しかし逆に意識的な評価とは反対に、そうした性質が無意識の中では高い位置を獲得していることがある。したがってアニマ像には、男性を高みに導く美しいものと、男性を誘惑して陥れる恐ろしいものとがある。それらは男性的な偏りを補償する役割を担うことができる。


【私見】
無意識の中で本能的なものが理性より優位に働くのは想像に難しくない。
男というものは意識的には自身の邪(よこしま)な本能を嫌うものの、無意識下ではそれに支配されているものである(人や文化にもよるが・・)。然るに、その本能がなければ種としての人類が絶滅するわけであるし、しかしながら本能に支配されれば社会が成り立たないのも事実である。故に男性は、その本能と理性のジレンマに悩み生きてゆくのである。
この理性と本能は、性的なものに限らず、食欲、睡眠欲などの欲求、果ては生きるということに対しても同じことがいえる。(死についての考えとか・・)
まあ要はバランスなのだが・・・・・。

アニマ像は男性だけでは足りない本来の人間としての在り方を補償してくれる存在なのだが、その本来の人間としての在り方とは何なのだろう?
その答えを今の私は持ち合わせてはいない。またこれは個人的な問題であって、一般論で語れることでもないと思う。この個人的な答えを得るために、私は自身のアニマ像を発見し、それと付き合う必要があると思う。象徴的にも、現実的にも、である。つまり、夢分析などを通して象徴的なアニマ像とも付き合うし、実際の女性を通しても何かしらを得るわけである。
こういった意味でも、結婚は子孫繁栄だの、恋愛だの、本能の要求だのを除いても、大いに意味があるわけである。(子孫繁栄、恋愛、本能の要求にも勿論深い意味があると思う)
因みに、禁欲的な男性が一般的には性にだらしないとされる女性の虜になったり、本能のままに生きる男性が禁欲的な女性に心奪われるのを見かけることがあるが、これも自身の欠陥を補う補償作用からきているのかもしれない。








【タイプ論】

☆タイプ論☆ 白字は「図説ユング 林道義 河出書房」より



ユングとフロイトの対立が顕在化する少し前に、フロイトとアードラーの対立が生じ、ユングは自分がどちらにつくか迫られるような立場になった。
結果を言うと、ユングはどちらの側にも立つことがなかった。なぜならユングはどちらも真実を言っているように思ったからである。
例えば、あるヒステリー症状の女性についての見解は、双方以下のようなものであった。
(女性の症状は、夜中に不安発作にみまわれ、金切り声を上げて飛び起き、夫にしがみついて、「捨てないで」などとしつこく言うものであった)
この症例についてフロイトは、それはこの患者が父親に対して近親相姦的な心理を持っていたためだと説明した。すなわち彼女は本来母親が占めるべき地位を占めていたが、父親が他の女性に興味を示したときにショックを受け、後に夫が他の女性に恋心を持っていると分かったときに発作となって出たというのである。
それに対してアードラーは、この症例をまったく別の観点から説明した。すなわち誰でも他人を支配し操りたい衝動を持っているが、この患者の場合には、発作がおきると皆が心配して右往左往して、電話のベルが鳴り、医者が駆けつけてくる、というように家族全体が自分のために動員され、自分が中心になれる。こうして彼女の権力意思が満足させられる、というのである。
この対立する二つの学説の間に立って、ユングは両方とも正しいと感じた。ユングはノイローゼには相反する面があり、フロイトとアードラーはその別々の面を見ていたのではないかと考えた。つまり両者の学説の違いは、対象を見る心理的特性の違いによるものではないかと考えたのである。彼は後に学問の違い、というより学風の違いは、その背後にある「個人的心理前提」の違いだと見ていくようになる。
フロイトが家族関係という外向的な事象に注目しているのに対し、アードラーは主体の隠された動機という内向的事象を注目しているというのである。


【私見】
このエピソードは、ユング自身の位置づけを決めるとともに、彼の可能性に対して開かれた態度を語るものであると思う。
私自身がこのヒステリー症状の女性を考えた場合(あまり資料がない訳だが)、フロイトの言うようにこの女性が父に対するコンプレックスを内在したまま夫と結婚し、そのコンプレックスがあるきっかけにより顕在化したというのも理解できるし、アードラーの言うように家庭に自分の位置を見出せない女性が、病気になることでその家庭を支配する、という見方も理解できる。
というか理由は一つとは限らず、幾つかのものが絡み合うものだと思う。そして治療とは、その理由とやらを一つずつ見出し、自己対決(魂との会話、意識と無意識との統合)により、その絡みついたものをあるべき位置(あるいはよりよい状態)に戻す作業だと思う。
さらにこの事例について想像するなら(本来、治療の場においては想像は余計であり、患者自身の連想などにより解き明かしてゆくのが正しいと思う。しかしながら、この事例を考えることにより、私人身が疑似体験し私自身を補完することを考えれば、この作業は私個人にとっては決して無駄ではないと思われる)、ともかく想像するなら、彼女は夫に対して自らの存在意義を見出せず、また家庭においても存在理由が分からず、ジレンマに陥ったものと推測する。(あくまで推測である)
これを解消するには、彼女自身が自身の魂に耳を傾け、その欲求と自我の間で折り合いをつける必要があると思う。(本能的なものと理性との対決でもあるかもしれない)
彼女は無意識下でどうありたいと欲しているのか、それは周囲(家庭、社会を含む)に対して適切なものなのか、そういったことを考える必要があるだろう。(無意識の欲求を殺してもよろしくないし、無意識に呑まれてもよろしくないのだ)
あるいは、自分というもの「アイデンティティー」を確立し、その過程において、過程での居場所や、社会での居場所、社会に生きる意義、などを構築していかなければならないのかもしれない。
そういう意味で、彼女のヒステリー症状は、それを伝えるメッセージや提言かもしれない。


ここでもバランスという言葉が重要になる。意識と無意識、自我と自己、本能と理性、影とペルソナ、ペルソナとアニマ・アニムス、色々なところでバランスをとらなければならない。またそれは時々刻々と位置づけが変わるから面白い。
人も社会も国も、宇宙も、日々この瞬間に進化しているのだ。そして全宇宙のはじめの出発点、人間でいう魂の中心は、常に「進化せよと」いうメッセージを投げかけているのだと思う。








【グノーシス主義】

2004/02/01

☆グノーシス主義☆
 白字は「図説ユング 林道義 河出書房」より



キリスト教が成立する頃、世紀末的雰囲気の漂う地中海を中心に「グノーシス」と呼ばれる宗教が広まっていた。「グノーシス」は、かつて存在した完全なる世界(プレローマ)からの人間の堕落と、プレローマへの回帰による救済を説く教義を持っていた。
ユングもまたこの「グノーシス」主義に影響を受けているようである。


【私見】
私の考える宇宙論によれば、宇宙は絶えずより良い究極の状態目指して進化しているわけで、仮にグノーシスのいう「かつて存在した完全なる世界」というものがあったとしても、現在においては、その完全なる世界の壁をぶち破り、より良い究極の存在へと進化していることになる。(すでに一つ上の次元にシフトしている事になる)
と、いうことは、たとえ完全であったとしても過去に回帰することは不毛であり、進化にとって有効とはいえないことになる。しかしながら人間、あるいは社会を考えた場合、かつての世界に回帰することは不毛でもなんでもなく、意味深いことであるといえる。(歴史に学ぶ、足元を固めるという意味で…)
また、時代が科学一辺倒に進んでいるのなら、かつての世界に回帰し、人間的なものに立ち返ることは非常に意味があるといえる。時代のバランスが崩れれば当然このような思想、運動が起こるのも当然である。
人も社会も時々刻々うつろいながら、光と影、善と悪、理性と本能、ありとあらゆる対立するものの間をバランスをとりながら、まるで波が揺らめくように動いているものであると私は思う。だから、当然バランスが悪くなればその反作用が起こるのだ。
更にいうなら、人であれ社会であれ、それがあまりにも一面的に進むとき、それを破壊してでもバランスをとろうと補償する力が働くものであると思う。
(また、一面的に働く力が強かったり、その期間が長い場合は、当然そのぶり返しも大きいものとなる)
一見世界が平和で豊かに進もうとも、それは真の平和で豊かな世界などではなく、その裏に隠れた闇を肥大化させないためにも、人で言うなら内なる魂のような存在が、その平和で豊かな世界を壊しにかかるのである。これにより一見平和で豊かな世界は破壊されるわけであるが、その裏にある闇の消滅と、新たなバランスの構築をも意味し、世界は新たなるよりよい方向に進化しようとするのである。
またその先代の世界の遺産は無駄ではなく、次の世界の土台として立派に生かされる。
これは個人の人生においても、家族、社会においても同じことがいえ、宇宙の法則そのものであるともいえると思う。








【錬金術の研究】

☆錬金術の研究☆ 白字は「図説ユング 林道義 河出書房」より



ユングは錬金術の書を読みながら、その用語の索引を根気よく作っていった。その膨大な用語表の中から、彼はよく出てくる奇妙な言葉に気づいた。たとえば「哲学者の石」「哲学者の息子」「永遠の水」「生命の秘薬」などである。錬金術師たちが言っている金とは、実はこれらの言葉で表現しているものであって、決して物質的な金ではないことにユングは気づいていく。ある錬金術師は「我らの求める金は、世俗の金にあらず」と言っている。
ユングは錬金術師たちが本気で金を作り出そうとしていたのではなく、彼らが金と言っているものは、実は彼らの内面的な理想の状態であることを明らかにした。錬金術師たちは材料の物質を溶かしたり焼いたり蒸発させたりしながら、そのプロセスに自らの心理を投影していたのである。錬金術師たちは結局、対立するものを、どちらも生かす道を探っていたのであり、対立物の結合を目指していたのである。


【私見】
このようにユングは錬金術をきっかけとして「対立するものを互いに生かす道、対立物の結合」という真理を得るわけであるが、私にとっての金とは何なのであろうか?
今はその姿を見ることはできていないが、それが生まれるように、私はわが体内の金を日々意識してみようと思う。
余談であるが、私にとっての「哲学者の石」「哲学者の息子」「永遠の水」「生命の秘薬」は何であるか、私なりに考えてみる。
哲学者:考える人、真理を探究する人、(ギリシヤ) philosophia は知恵への愛・希求の意。
石:とるに足らない当たり前に傍らにあるもの、意思、キリスト教でいうリトル・ぺブル
息子:自分と伴侶との間に生まれるもの、分身、新たなる可能性
水:無意識、無限に存在する命の源、意識の深遠
生命、秘薬は、そのものとしか言い表せないように思う。
「哲学者の石」:真理を探究する者が得るもの、但しそれは実はごく身近にあり一般には価値がないと思われているが、実は大いに価値があるもの
私は何かしらについて考えることが自身の仕事であると思うし、それによりこれが得られるのだと思う、あるいは「気づき」「悟り」か・・・
「永遠の水」:無限の意識の深層、永久に続く生命の源、生命の生まれる場所であり帰るべき場所
これは個人的な無意識でもあり、また宇宙そのものともいえる集合的無意識でもあると思う。
また言葉をよりストレートに捉えるなら、時間を超越して永遠に存在するすべての源といえると思う。
「生命の秘薬」:言葉どおりのイメージでよいと思う。但し額面通りの薬ではない。ある人にとって真理は最良の薬なのだから。








【2004年2月2日】

2004/02/02



【私見】
昨日 錬金術でいう金が自分にとって何であるか考えたわけだけれども、やはり私にとっての金は、本来あるべきより良い最高のかたちになること、であると思う。
これは勿論、私自身だけでなく、宇宙そのものにもいえると考える。
そして錬金術師たちも、物質としての最良のかたち、究極の存在として、金を捜し求めていたはずで、これは一般にいう元素記号Auとしての金を指してはいなかったと推測される。
またユングの考えによれば、この究極の存在としての金を探すことにより、物質のみならず、すべての生命、あるいは宇宙全体の究極のかたちの探求を目指していたといえる。
そして宇宙の究極像は一個人の究極像とも密接に関係する、というか、目の前にある塵でさえ宇宙を構成し、究極の形に導く重要な要素であるといえる。(勿論、その影響力という点では違いはあるのだが・・)

宇宙の終わりと始まり
ひとつの宇宙を卵の内的世界と考えた場合、生まれた卵は、その殻の中で成長し、その成長が卵の内的世界の頂点に達したとき、その殻を破って新たなるより広い世界に生まれるのである。
これを我々の宇宙と考えたとき、宇宙は生まれた瞬間より、より良い究極のかたちを目指して進化し、進化がその頂点に達したときに、宇宙はより高次の次元へとシフトすると考えられる。
では、その宇宙に存在する一個人たる我々の意味は?
我々が宇宙を構成するひとつの要素であると考えると、我々は生物における細胞のようなもので、常に消滅と生成を繰り返しながら、全体性としての宇宙の一端を担っているといえる。
しかしまた同時に我々は自身のうちに細胞を持ち、意識という小宇宙をも持っている。
こう考えると一体何がミクロで何がマクロなのか分からなくなる。
我々の認識する宇宙でさえ、何かの一部なのかもしれない。
ということは、結局すべてがミクロでもありマクロでもあるということになり、同じであり同じでないということになる。

もう一度人間という存在にかえってみよう。人間は生まれ死ぬ。生成と消滅を繰り返す。これは全体性としての宇宙が進化するために必要不可欠なものである。
そして宇宙が進化する以上、人間もそのかたちを永久にとどめるものではなく、進化するものであるといえる。実際、人間は進化している。自分をネアンテルタール人と同じであるという人はいまい。(同じ系譜を持つという意味では同じかもしれないが、私は進化という点に注目するので、違うという)

では人間の心理に注目してみよう。
人はある時期、虚無感におそわれたり、原因不明の不安にさいなまれたりする。
この原因の一端を上に述べた宇宙観にみることができる。
宇宙のすべてのものが進化を目指すのだから、人間もその遺伝子に進化せよという課題を持っていることになる。ユングの考えを借りるなら、人類共通の集合的無意識の中に進化の元型を持つことになる。これは生物学的にも心理学的にも持つものであると思う。なぜなら生物学的にも、心理的にも人間は進化しているからである。
話を戻すが、ある個人の無意識下の中心、魂が、その個人に進化の可能性を見出したとき、魂は個人に対して進化せよという課題を投げかける。
このとき人間の自我がこれに耳を貸さない場合、無意識下の魂なる存在は、どうにかしてこの課題に取り組ませようとする。そして尚、自我が対面を拒否するならば、魂なる存在は、たとえ当人を病気にしてでも、こちらに注意を向けさせようとするのである。
あるときは心身症、あるときはうつ症状、あるときは心理的な面だけでなく、実生活の事象として、メッセージを投げかけてくる。
しかしながら、このメッセージは直接的ではなく、むしろ分かりにくいものである。心身症的な症状だけで魂からのメッセージを読み取ることはできないのだ。
ではどのようにして魂からのメッセージを聞けばよいのか? その手法こそが心理学であると考える。つまり私にとってのユング心理学である。
その手法は様々であると思うが、私個人の場合、夢分析をよく用いる。
知ってのとおり夢は意識の制約を受けず、無意識からのメッセージを、よりそのままの形で我々に示してくれる。とはいえ魂そのものを見ることはできないのだから、我々の認識できる形をかりて現れる。それはごく個人的で、一般論だけでは語れないものである。だから私は夢で見た事象の部分部分を連想によって置き換え、個人的にそのものの意味するものに置き換えてみるわけである。
例えば、私が檻に入れられている夢をみたとする。そこで私は自身にとって檻とは何かを連想する。檻→捕らえるもの、支配するもの、そして強力なもの、と考えたとしよう。すると、私はその時の現実問題において、何かに囚われているのか? 何かに支配されているのか? しかもそれは何やら強力なものかもしれない、と考えるのである。
このようなことを繰り返すことにより、魂からのメッセージを読み取ろうとするわけである。
因みに同じ個人が同じ夢を見たとしても、その時その時で連想するものは違ってくる。人は時々刻々と移り変わるものなのだから・・・。
しかし一方で時間を超越して存在する「不変ともいえるもの」があるのも事実である。
要はとらわれることなく、可能性に対して開かれた態度を持つことが有効になってくるのである。

更に学問としての心理学を考えるならば、心身症、うつ病、神経症など、それぞれの症状に対してある種の傾向が存在するのは紛れもない事実であり、そこに学問としての意義が存在する。
しかしながら、こと治療に関しては、非常に個人的であり、一般論では語れない部分が多いので、一見するとあやふやとも思われる可能性に対して開かれた態度、が要求される。(もちろん一般論が必要な場合もある。なぜなら我々は現実社会に生きるものだから。ただ、そればかりに囚われてはおれないのである。ここでもバランスが要求されるわけだ)

ともかく私個人にとっては魂に耳を傾け、その要求を探求し、意識と無意識との間に折り合いをつけることが重要であると考えるわけである。(実はそれだけでなく、ありとあらゆるものの間に折り合いをつけることになるのだが・・・)







【チベット仏教】

☆チベット仏教☆ 白字は「図説ユング 林道義 河出書房」より



「チベットの大いなる解脱の書」の注解の中で、ユングは東洋における心のとらえ方について、こう述べている。東洋の宗教は「内向的な心のもつ自己救済の能力」を信じており、自我が消滅した意識の状態が存在することを信じている。禅やヨーガなどの「三昧」(サマーディ)は自我が事実上消滅した心の状態を理想としている。つまり西洋の意味での意識は「無知」(無明)として劣等な状態にランクされている。したがって西洋の集合的無意識の概念が東洋の悟りの状態に当たるのである。


【私見】
「内向的な心のもつ自己救済の能力」はユングの信ずるところであり、心理療法自体が、この力の可能性に頼っているといえると思う。
東洋の宗教は、自我を消滅させ、肉体を脱し、内なる世界との対面に重きをおいていると私は理解するのであるが、私はこれが全てだとは思わない。なぜなら、人間は肉体をもって生まれてくるからである。これには現在の我々が知らない重要な理由があるはずだ。肉体が必要でないならば、進化の途中で肉体は捨てられたはずである。しかし肉体は、個人対個人のコミュニケーションの手段としてか、子孫を残すという意味でか、あるいは我々の知らない未知の能力ゆえか、ともかく人間にとって、ということは宇宙にとって、必要不可欠なものであるはずだ。(結局 さまざまな複合的な意味合いがあるのだろうけれど・・・)
ともかく、東洋的な無意識に価値を見出すアプローチと、西洋的な合理的ともいえる現実的なアプローチ、両方が必要で、互いを補い合ってこそ、人間の進化が達成されるのだと思う。
しかし一方で、ユングの言うとおり「一面性に徹してこそ、多面性が花開く」のであるから、東洋と西洋に思想的な差があったり、ある時代においてあまりにも一面的な動きがあるのも、それはそれで意味深いことであると思う。
我々が必要とするのは、何かに盲目的に支配されず、また何かを頭ごなしに否定もしない、そんな態度ではなかろうか。

ユングは東洋も西洋も、どちらも一面的だと述べている。すなわち「東洋は意識の世界を過小評価し、西洋は『一なる心の世界』を過小評価している。その結果、どちらも宇宙の半分を失ってしまう。西洋には意識の明瞭さがあるかわりに無意識の世界を捨て去ってしまったし、東洋には智恵と平和とすべてに超然たる心の『ゆるぎなさ』があるが、あるがままの生の悲しみと喜びのすべてを捨てている。もちろん一面性の全てが悪いというわけではない。一面性に徹してこそ、多面性が花開くことができるからである」。このような注釈にはユングの基本的な態度がよく現れていると言える。








【ユングの晩年】

☆ユングの晩年☆ 白字は「図説ユング 林道義 河出書房」より



ユングは『ヨブ記』において神が横暴なのは、女性性を欠いていたための無知によるものと捉え、「マリア被昇天」によって女性的な智恵が復活する端緒を見出したのである。
この本の中には、「神が神自身の無意識に苦しむ」とか「神と人間の関係が変化するにつれて神自身も変化する」「イエスの出現は神の意識化を意味する」「イエスは人間の代わりに罪を背負うために地上に来たのではなく、人間の苦しみを神自身が味わうために来たのだ」「マリア被昇天は神の中に女性性が受け入れられたことを意味する」など、きわめて独創的な発想が現れている。一貫して基礎になっているのは、ユダヤ−キリスト教の全歴史を貫く神と人間のドラマが、意識と無意識の間の葛藤と和解を表しており、対立とその結合の表現だという見方である。


【私見】
このようにユングはキリスト教における神を独自の切り口で見たわけだが、これは一般的にいうキリスト教の神の像を否定するものではなく、当時の一面的な捉え方に対するひとつの提案として投げかけたのではないか。当時のキリスト教社会を補償するための反作用ではなかろうか。
これはあくまで私個人の推測であって、真偽のほどはユングにしか分からぬわけだし、あるいはユング本人もその本心には気づいていなかったのかもしれない。しかしその当時のユングが発した言葉は、その瞬間において真実以外の何ものでもない。(ユング当人にとって)

ここで現代日本に生きる私にとって考えてみる。
「神が神自身の無意識に苦しむ」:私は、神は無意識を持たないゆえに完璧なのであり、その一方で進化の可能性を放棄しているのだと思う。
「神と人間の関係が変化するにつれて神自身も変化する」:これについても、神は至高の存在ゆえに変化などしないと考える。
こう述べてゆくと、私は神に進化の可能性がないゆえに劣等と判断しているのか、と考える人がいるかもしれないが、私にとっての神の前提が、人間の届かぬ叡智を有する存在であるので、とても劣等とは考えないのである。しかしながら、人間が劣等であるとも考えないし、その可能性においては、神をも凌駕するかも知れぬことを否定しない。(現段階においては、とても神には及ばないが・・・)
また、私の神に対する態度としては、私は神に全てを支配されるものでもないし、頭ごなしに否定するものでもない、ことを度々ではあるが宣言する。
神を盲目的に信ずることも、頭ごなしに否定することも、私にとっては神に対する冒涜なのである。

ユングはキリストや聖母マリアについても言及しているが、これはキリストや聖母マリアそのものにあてた言葉ではなく、その背後にある社会にあてた言葉であると思われる。
私にとってのキリストは宗教的な一面と、歴史的な一面を併せ持つので、その存在自体の議論が学術的にその時代時代においてなされるのを期待する。(これはひとつの真実を求めるというのではなく、その可能性に対する考えと、そこから生まれる副産物に注目するものである)
また「神の御子、イエス」と考えると、そこには新たに生まれた可能性が見て取れ、イエスが昇天し神の元にかえることで、キリストが得た真理を神に伝えた、という考え方もできる。ここにキリストが人間として生まれた意味が見出せる。








【死の夢】

2004/02/03
☆死の夢☆




ユングは死ぬ二、三日前に次のような夢をみている。
「彼は、高い何もない場所に、大きくて丸い石の塊を見た。そしてそこの石には『これは全体であること、すなわち一つであることをあなたに告げる前兆となるであろう』と刻まれていた」


【私見】
この石は錬金術でいう「石(あるいは賢者の石)」をあらわすと共に、完全を意味する「全体性」をあらわすものであると思う。
ユングが死の直前にこの夢をみたことは、ユングが生涯をかけて価値ある石を完成させたことを意味し、また死ぬことで全体性にかえることを意味するのではないか。
つまり人は死ぬことにより、より完全に宇宙の一部になるのである。
これは生きとし生けるものが、その死により、土や海にかえることにより、容易に想像できる。
では何故人は苦しみながらも生きるのか?
それは生あるうちに知識を集め、進化し、それを死に際して宇宙、あるいは集合的無意識に還元することにより、宇宙もまた進化し、そこから生まれる新しい命は先人たちの進化を基礎に、更なる進化を続けるからである。
ユングはそれをこのように述べている。
「死者たちは、死後まったく進化せず、死んだときの知識や心の状態のままでいる。したがって新しく死んできた者から、現在の世界や到達した認識について知りたがる」
このことからも、集合的無意識、元型は、一見不変でありながら、日々また強化されていることもが伺える。








【まとめ】

まとめ

以上、主に林道義氏著の「図説 ユング」を元に考えを進めてきたわけだが、魂が私に与えた命題、「人間の進化について考えること」は、現時点において、ひとつの答えを得たわけである。

すなわち、人は生まれながらに、その無意識下の要求として、「進化すること」という命題を持ち。それゆえに悩みもする。
個人的無意識の中心にして、宇宙あるいは集合的無意識の中心たる「魂」は、個人に対し、進化の可能性を見出したとき、自我に対して、この命題をより強く投げかける。
この魂の語りかけが病気としての形をとったとき、精神の病が発病する。
したがって、精神の病は否定的な面を持つばかりではなく、そこに大いなる可能性を見出すことができる。(とはいえ、本人にとって甚だしんどいことなのだが・・・)
人は死に際して、自身の遺産を、宇宙の中心「魂」に還元する。これにより、全体性としての宇宙が日々補完されていくのである。
宇宙はその始まりより、外に広がるように進化している。しかし、宇宙の部分部分の死は、その財産(知識・経験)を宇宙の中心に還元し、これにより宇宙は外に広がるだけでなく、その中心においても進化しているといえる。
そして、宇宙の終わりには、宇宙そのものが中心に向かい、その財産を集約し、死ぬことになる。
しかし、この死とはむしろ再生であり、次の次元にステップ・アップする儀式であるといえる。


ここに私のひとつの仕事を終えることになるのだが、先ほどから何度もいうように、これがすべてではなく、むしろ稚拙な私の知識をかんがみるに、今後更にこれらの個人的考察が補完されていくものと思う。
しかしながら現時点においてひとつの考察を得たことは、個人的に、非常に喜ばしいことと感じる。また、この考察が誰かの目に触れ、その心をくすぐるならば、そこにまた新たなる喜びを感じずにはおれないのである。


私自身の次のステップとしては、この考察を、個人に当てはめること、つまり私自身なり、縁のある誰かしらなりに、応用することである。
それについては別にまた語ろうと思う。

2004/02/03 18:08 自宅パソコン上にて・・・。








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