【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、「表紙の過去ログ 08年6〜7月分」を紹介をしています。

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表紙過去ログ

    2008年07月:「問題の行動化と、意識化・言語化」
    2008年06月:「幸せとはなんだろう?」
    2008年08月:「8月の表紙」
【2008年07月】


◇「問題の行動化と、意識化・言語化」◇


そこにあるものが問題化するのは――というのは、例えば、事件化するのは――実際に行動化するからなんでしょう。当たり前ですが、思っているだけでは問題にはなりません。まあ、溜め込みすぎて体調を崩すということはあるかもしれませんが、それだけで事件化することはありませんよね。事件化するということは、実際にそれだけのことをする、行動化するからなんでしょう。

その人の中に、表に出さなければならない=表現しなければならない、そんな何かがあるということなんでしょう。そして、言葉を持たないので、どうしても問題行動や病気などとして、顕現してしまう。


河合隼雄先生はその著書「子どもの本を読む 」の中で、こうおっしゃっています。

しかし、残念ながら多くの場合、彼らは言葉をもたない。したがって、彼らは言語表現の道を断たれ、いわゆる「問題行動」を通じてしか手段をもたなくなるのである。

世の中の価値観――あるいは、身近な大人たちの価値観が――あまりに単層的になった時、子供はうんざりさせられてしまう。そのうんざりが見えないところで溜まりに溜まって、そのうち、意識まで圧迫しだす。やり切れない思いに、堪らなくなってくる。それが何かは分からない、ただ圧迫される。

そこである人はイライラし、ある人はモヤモヤに悩み、塞ぎ込んだり、当り散らしたりしてしまう。

で、こういうことって、誰にだってあるでしょう。子供に限ったことではありませんよね。



まあ、多くの人は事件なんて起こさないわけですが、イライラしたり、モヤモヤを感じたり、あるいは塞ぎ込んだり、当り散らしたり、こういうことはあると思います。

で、そういう時って、「訳も分からず」ってことはないですか。あるいは、理由として認識しているものがあるにしても、ちょっとしっくりこないとか。そもそも、その訳ってやつをしっかり検証する人は少ないでしょう。

ということは、我々にしたって、未だ言語化されない「何か」を持っているということなんでしょうね。そういうものに圧迫されているわけです。





ひとたび大きな事件が起こると、「××が怖い」ということになったりします。

子供が怖い、ヲタクが怖い、ゲームは怖い、内向的な人間は怖い、思春期は怖い――まあ、いろいろ言う人が出たりしますよね。それを引き合いに出して、「お前は大丈夫か?」とか。

まあ、こんなことを真面目な顔して言える人間のほうが怖い――というのは措いといて、 なんつーか、人間というのはどうしても「他人事」「自分には関係ないこと」として語りたくなってしまうようですね。その割に、自分と同じカテゴリーの人がどれだけ事件を起こしているかとか、そういうことは語りたがりませんが。

それだけ人間全般が脆弱ってことなんでしょうか。





人間の感情というものは、人と人との間で生じるものだと思います。ひとりだけでは生じません。ひとりきりの時でも感情は生じるわけですが、それにしたって誰かのことを想ってとか、誰かのことが思い出されてとか、過去の誰某との経験によってとか、誰かしらの影響を受けていたりします。人と人によって生じているわけです。

ここで問題のない人は、パッと一瞬燃え上がったりするにしても、それは消化されるんですが、どうも消化されないことがある。燃えカスがというよりは燃える前の何かが残っていたりする。言語化・意識化されない何かがそこにある。

で、その「何か」にしたって、誰か相手があって生じているわけです。

さらに、なぜ溜まるかというと、日々蓄積されるからでしょ。日々蓄積されるというのは、毎日(*1)何かをされるということです。するほうは「それ」が何であれ、「それ」をいつもするし、受けるほうは「それ」をいつも受けているわけです。で、蓄積される。

ただ、それを意識化できない事情があったりするから、してるほうは「それ」をしていることを意識しないし、されてるほうも「それ」をされていることを意識しない。まあ、まったく意識しないこともないんでしょうけども、明確には意識化できてないわけです。そういう事情があったりする。


(*1)
「毎日」といったって、言葉どおりの毎日とは限らず、感覚として「いつも」のように感じるということです。短い期間を「三日」と言ったりしますが、あれと同じです。



意識化が困難になる理由は簡単には語れませんが、そのひとつとして、「相手が不在であること」が挙げられるかもしれません。

いや、相手があって生じたことなのに相手がいないとはどういうことか、と言われそうですが、一般には存在するということになっていても、役割としては存在していない、ってことはあるかもしれません。あるいは、一方的に干渉するものとしては存在しても、受けるものとしては存在していない場合もあるでしょうか。例えば、目に見えるカタチとして、「それ」は存在しても、役割としての「それ」は存在してなかったり、心理的には別なものとして存在している場合もあるわけです。

ここに、難しさがあるのかもしれませんね。

意識化・言語化っていったって、人と人との中で行われるものだろうし、それをするってことは、意識し、言語化したものをぶつける・ぶつけられる「先」ってものが生じるわけです。

そりゃ、誰だってやりたくないだろうし、やられるほうもかなわんし、やろうにもその先が不在なら、どうしても難しくなるでしょう。

そして、し始めたらし始めたで、どうしても痛みや悲しみが生じる。両方に。で、それに耐え切れず、別の悲しみが生じる可能性もある。これじゃあ、難しいのも当たり前です。タブーにもなりますわ。意識化や言語化が困難になるのも頷けます。

だから、どうしても時間がかかるし、簡単に触るわけにもいかない。自然な「その時」というタイミングを待たなければならない。そして、それもつらい。


因みに、不在であることを必ずしも責めているのではありません。なにせ、ぶつかってくるものが大きい場合もありますから、それを受け止めろたってどだい無理な場合もあります。何が悲しいって、破壊だけに終わってしまうから悲しいのであって、やっぱり、受けきれない時は受けるべきじゃない。ただ、そのギリギリのところに「それだけじゃないもの」が生まれたりするので、こりゃまた難しいです。



そいでもって、周りには「じっと待つ」ことが望まれるのだと思うのですが、どうもそうはいかない。

ここでは詳しく書きませんが、メディアでコメントする人の顔を見ていると、その難しさをより強く感じたりします。もう、何とも…





先の河合隼雄さんの言葉には前文があります――

大人たちの現実認識があまりにも単層的で、きまりきったものとなるとき、子どもたちの目は、大人の見るのとは異なった真実を見ているのである。われわれ大人の目は、常識というものによって曇らされている。子どもたちの透徹(とうてつ)した目は、異なった真実を見る。
しかし、残念ながら多くの場合、彼らは言葉をもたない。したがって、彼らは言語表現の道を断たれ、いわゆる「問題行動」を通じてしか手段をもたなくなるのである。

大人というか、世間一般の目や価値観があまりにも単層的になる時、そこに暴力的なものが生じることがあります。そこにあるのが「善いものか悪いものか」よう分かりませんが――というか、世間一般には「善いもの」なんでしょうけども――それを一方的に押し付ける。これはある意味、暴力的なんでしょう。(まあ、私もやってしまうわけですが…)

まあ、世間一般はいいにしても、身近な人までひとり残らずそうなると、救いがなくなってきますわな。居場所がなくなる。心休まる場所が「家」だとするならば、物体としての家はあっても、前者の意味での「それ」はないことになってしまう。こんな言葉を使っていいのか分かりませんが、ある意味では、みなしごなわけです。物質的なものはあっても、心的にはそうだったりします。

こういう、物語にも似た現象が、そこかしこで起こっているのかもしれないのです。我々は案外、物語の中を生きているのかもしれません。(我々の生きている現実の世界にも、王様や女王様がいるかもしれないし、家来や門兵、奴隷、魔法使いや鬼、人喰い、鳥やネズミなどの動物、いろんなものがいるのかもしれません)

と、脱線しましたが、このように考えると、問題行動の裏には何かしらの訴えがあるわけで、それによって問題行動を正当化する気はさらさら無いのですが、何というか、当事者になってしまった時は、一緒になって考えなければならない、ということなんでしょう。

そこに何があるのか、向き合わねばならないんでしょうね。

今は問題なしとして見えてない人も、一緒になって「それ」を探さねばならないし、無意識的には見ているが言葉になっていない人も、「それ」を表現する言葉を見つけなければならない。

そして、それぞれが今はカタチになっていない「それ」を、自分の人生に組み込んでいかねばならないんでしょう。

こういうたいへんな冒険を経なければならないということかもしれません。





いつものように、まとまりのない文章になりましたが、それが誰であれ――子供であれ、大人であれ、ニュースの中の人であれ、身近な人であれ、私であれ、あなたであれ――深刻な問題を起こさないようにするには、「そこにある何か」を、言語化し、意識化し、受け止めていく必要があるんでしょうね。

大きな痛みを引き起こさないために、ある程度の痛みを引き受けなければならない。

実際の悲しみを生じさせないために、象徴的な悲しみを経なければならないんでしょう。(*2)

そして、それは決して、他人事として語られるものではない。社会の問題だと言ってみても、その社会を構成しているのは今を生きる我々なんだから。



(*2)
参考:(以下、日記より)
    「象徴と葬式体験/河合隼雄『昔話の深層』」
    「死と再生と、象徴と/考える人 河合隼雄さん」
    「悲しみの意味…」







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【2007年06月】


◇「幸せとはなんだろう?」◇


幸せって何なんでしょうね?

お金が一杯あること? 立派な家に住むこと? ステータスのある旦那さんがいること? 奥さんが美人なこと? 賢い子供がいること? 子供が芸術やスポーツに秀でていること?

――何だか、「自分」というものからは遠そうですね。

好きなことをする時間が一杯あること?

――うん、そうかもしれない。でも、その好きなことって、何なんでしょう?



日本は横を見たがる社会なので、上記(の前半)のような傾向はあるかもしれませんね。横を見て、負けた・足りないと嘆き、あるいは、得意になったりする。もっとも、十分に足りている人は、そんなこと気にしないんでしょう。

いや、足りていることを攻撃されるのにウンザリして、気にするようになるかもしれない。“出る杭は打たれる”というのが、脈々と受け継がれていたりするし。

あるいは、自身はそうでなくても、そういう人たちにゲンナリしてるってことはあるでしょう。



でも、幸せというのは画一的ではないですよね。人間の数だけ、幸せのカタチはありそうだ。

しかし、横見て比べないことには気が済まないんだから、幸せなんて分かるはずもない。それは優劣であって、幸せではないですわな。

ところが、そんなこと不問にされて、今度は「差があるのはおかしい」なんてことになる。始終右見て左見て比べて一喜一憂しているのに、もうそれに耐えられないから、「差をなくすべきだ」なんて言ってしまう。

人間に個性・個体差がある以上、差なんてものは何らかのカタチで生じるもんだと思うんですが、その差をいちいち指差して、嘲笑したり、勝った負けたと一喜一憂しているような人が、「差はおかしい」とか言ってしまう。

ホント、どこか、おかしい。



なくすべきは、いちいち差をつまみ上げて、笑ったり、バカにしたり、勝った負けたと大騒ぎしたり、羨ましいからと引きずり落とそうとしたり、可哀相なんてことを平気で聞こえよがしに言ってみたり、そういう<おかしな点>ではないですかね。

幸せたって、「横と比べてちょっと上にいること」なんてのは、幸せなのかどうか…



で、そういう幸せにしたって、<与えられるもの><誰かがしてくれるもの>となった日にゃ、それはもう…

それは将来、自分が空っぽになるということでしょ。

してもらおう、してもらおう、じゃ、だいたいそうなる。

自分でしてないんだからさ。

(それは空虚や絶望を追い求めているようなもんだ)



でも、まあ、だから当人が全面的に悪いのかっていうと、そうでもないです。

そういう時は、そのそばに、「へいへい、その通りでございます」「そうそう、その通りよね」っていう、素晴らしき賛同者の皆さんがいるみたいですもんね。

――と、毒を吐きすぎました。反省。

それに、「してほしい」ということが全面的に悪いわけではないです。それは人情だし、人間、ひとりでは生きていけない。頼ったり、支えあったりしないと、もたない。場合によっては、可愛げがあっていい。

けれど、人間はどうしてもひとりでもあるので、それは忘れちゃいけない。それをずっと忘れていて、急にひとり(独り)になったら、それこそ不幸だ。(だからって、小さい子に孤独を強要しちゃいけませんよ。最近の大人は親切で、自分ができないことを子供に強要したりするから)

だから、人生のどこかで、独りということを十分に経験し、そこで自分というものを確立せねばならんのでしょう。そうすれば、<幸せ>=<自分にとっての幸せ>というものも、少しずつ見えてくる。

それは人によっては思春期や青年期に行われるものかもしれないけれど、中年期や壮年期、老年期に行なったっていいでしょう。まあ、どの道苦しいんだし。(案外、風疹やおたふく風邪なんかみたいに、大人になってからのほうが大病になるかもしれませんが)

あるいは、何度か経験するのかもしれないけれど、一度やれば耐性はある程度つくでしょう。逆に、急に襲われるのが危うい。



悩むことが嫌です、ってのは誰でもそうで、悩むことに耐えられません、ってのも、そうなんだけども、それを避けることで失ってしまうこともあるので、<いい時分>にしっかり悩むというのは、必要なことではないかと思います。

(まあ、<いい時分>てったって、勝手に向こうから来るものかもしれないけれど)

というか、現代の病は「悩みが尽きないこと」だと思われがちですが、むしろ「悩みを避けようとすること」なんではないかと思います。

だから、サポートという意味でも、「悩まなくていいよ、悩まなくていいよ」なんていうどだい無理なことを言うんではなくて、「十分に悩める場」を提供するとか、そういう方向性が必要ではないのかな、と思います。(悩むための休息とか、悩めるような保護された空間とか、ね)

といっても、無理やり悩ませることは、もちろんないんですけど。



何だか、いつものように脱線してしまいましたが、「幸せってなんだろう?」というのは突き詰めないと分からないと思うので、その前段階として、十分に悩んだらいいと思います。

悩みもしないで、あるか無いか分からない世間の価値観でがんじがらめになって、挙句に人生の最後で絶望しましたじゃ、つまらんですからね。そりゃ、笑って死ねるほうがいい。しかも、死ぬ時は独りなので、独りでも持っていられる、<自分だけの何か>を持っているに越したことはないでしょう。

それは誰も与えてくれないので、自分で探すしかないですな。逆に、自分で探そうとすれば、ヒントぐらいはどこかに落ちているでしょう。



何だか、救いのないことを書き連ねて申し訳ないんですが、悩みきることで幸せが少しずつ分かってくるなら、それは悪いことではないと思うし、なんというか、しなければならないことや経なければならないことというのは、そこを過ぎない限り苦しいばかりなので、<いい時期>に来たら、通っちゃったほうがいいですよ、ということです。


ともかく、悩むことが最悪だってことはないと思います。むしろ、最悪は別のところにある――と思う。





【追記】

これに対して、禁煙先生は、「生活に野心を失ってはならないなんていう、きまりもんくだけは、もちださないでくれたまえ。……ほんとにたいせつなことを思いだす時間をもつ人が、もっと多くいてほしい、と思うんだ。金と位と名誉なんて、子どもじみたものじゃないか! そんなものは、たかがおもちゃにすぎないよ。ほんとにおとなはそんなものをあいてにしやしない」と答えている。

(以上、青字は河合隼雄著「子どもの本を読む」より――ケストナー『飛ぶ教室』について)


私は野心を否定しないし、お金も地位も名誉も、それはそれで尊重されるべきものだと思っています。

しかし、同時に、<ほんとにたいせつなことを思いだす時間をもつ人が、もっと多くいてほし>とも強く思います。

そしてそれは、いわゆる<大人の世界>だとか、<一般社会>だとか、そこから一度はみ出ないと、思い出せないものなのかもしれません。

そこからはみ出た、<人間の世界>を探求せねばならんのでしょう。

そして、<幸せ>に対するヒントも、そこにあるのかもしれませんね。

<帰還した人>の話には、そういうことがよく語られたりしますよ。







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【2008年08月】


◇「8月の表紙」◇


8月に表紙にて掲載予定です。







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